平野要(男子13番)は白い粉薬を口に流し込み、水で一気に嚥下した。この鼻炎薬を1日3回飲むことは、アレルギーもちである要の日課だ。これさえ飲んでいれば、よほどひどくハウスダストを吸い込まない限りくしゃみや鼻水は出ない。手元にあと2包しか残っていないのが気がかりだが、薬を飲んだという事実は要をさしあたり安心させた。
要はいまだ火葬場に留まっていた。3時間前、広瀬仁(男子14番)が吹坂遼子(女子13番)に殺され、鳥居雅治(男子11番)がすでに死体と化していたあの場所だ。
要はそこでポラロイド写真を眺めていた。雅治が最後に撮ったらしい1枚だ。そこには、細い目を最大限に見開いた仁と、カメラのほうへ向かってくる赤い何か――おそらく雅治の口内に刺さっているものと同じ、ボウガンの矢だろう――が写っていた。雅治を殺したのは紛れもなく仁らしい。あの絵に描いたような好人物でさえ、このゲームでは鬼と化してしまうのだ。
背後の火葬塔らしい建物を顧みる。全面ガラス張りの入り口を通し、室内を見渡すことができた。亡くなった人を火葬するための炉なのだろうか、正面奥の壁には黒い化粧扉が2つ並んでいる。その手前には長机が1台置かれているのみで、あとはむやみに広い床が敷かれているだけだ。
その真ん中あたりに、広瀬仁と鳥居雅治が横たわっていた。火葬場の前で息絶えていたふたりを要がそこまで運んだのだ。死んだ人間と火葬場という組み合わせはあまりにふさわしく、見るたびになんともいえない虚無感に苛まれるが、野ざらしのままよりはいくらかましだろう。
やはりプログラムに参加している以上、殺し合いからは逃れられないのだろうか。吹坂遼子の折れ曲がったゴルフクラブを思い出しながら、奥歯を噛み締めた。古屋祥子(女子15番)と同じように、自殺するのが最も賢いやり方なのだろうか。祥子の弁によれば、このゲームではどんな人間も憎悪の念に駆られかねないのだという。それは不可避なことなのだろうか?
しかしそれでも、要は悲観したくなかった。殺し合い以外にも道があるということを証明したかった。そして祥子に言ってやりたかった。
――人間はそんなに悪い生き物じゃないんで。自分の強さを信じられんかったお前はあほじゃ。ほんまにあほじゃ。
祥子の絶望を覆すために、まず要自身がクラスメイトに会わなければ話は始まらない。その点、要には手がかりがふたつばかりあった。ひとつ目がこの、鳥居雅治の撮った写真だ。
仁を写したもの以外にも、雅治のポケットには数十枚の風景写真が収められていた。海、山、花、地面、民家、車。おそらくは、どれもこの島で撮影されたものだろう。ありきたりな被写体ばかりだが、不思議と新鮮に映るのは、アングルに独特のセンスがあるからだろうか。美術の成績はあまりよくないのでとやかく評価できないが、雅治が写真をこよなく愛していたことだけはひしひしと伝わってくる。最後の最後まで自分の好きなことをやり続け、幸せな気分に浸ったままあの世へ行けたと思えば、少しは救いがあるかもしれない。
その中に1枚に、要の目は吸い寄せられていた。それはある一軒家を写した写真だったが、花柄のカーテンの隙間、ほんのわずかだが人影が覗いているのだ。心霊写真というのでなければ、正体はクラスメイトのはずだった。
2階建て、赤い屋根、そのてっぺんに取り付けられた大きなアンテナ。この家を探し当てることができれば、自動的にその人物とも会えるかも知れない。広い会場で特定の民家を捜すなんて無謀なことのようだが、写真の傾向が困難の緩和を示唆していた。“歩島火葬場”と書かれた門柱が、暗いうちに撮られ、夜明け間近の青っぽい空気の中で撮られ、さらに赤く照る朝日の下でも撮られていることから、雅治が同じ道のりをぐるぐると回っているらしいと予測が付く。クラスメイトが潜んでいるかもしれないその民家も、この付近にあると充分に考えられる。
そしてふたつめの手がかりは、火葬場を囲むブロック塀のすぐ外にあった。
ジリリリリ、といきなり電話の呼び出し音が鳴り響き、要は飛び上がるように立ち上がった。この場に留まっていた最大の理由はこの公衆電話にある。3時間前、この音に導かれて要はここを訪れたのだ。そのときは出ることができなかったため、再びかかってくることを心待ちしていたのだった。
誰が、何の目的で、どんな方法を使ってかけているのか。謎だらけでいかにも怪しいが、少しでも他人と接触できる可能性があるのならそれに賭けてみたかった。
鬼が出るか仏が出るか。迷っている暇はない。これを逃せば、もう二度と機会を与えられないかもしれない。要は素早く表へ回り込み、門柱そばに設置されている公衆電話を取った。
「切らんでくれ」
受話器を耳に当てるなり、相手に頼む。同時にすぐさま塀を背にし、あたりへ注意を配った。電話が鳴り始めてから何秒も経たないうちに対応できたはずだが、今の音を聞きつけ、狂気に駆られた者に襲われないとも限らない。要は手に汗がにじむのを感じた。
だがそんな緊張も、次の瞬間に霧散することになる。
『ぱんぱかぱーん。コングラッチュレイショーン!』
受話器から聞こえてきたのは、深刻さのかけらもない祝福の挨拶だった。要は思わず唖然として、しばし目を瞬かせた。
『君は見事3コール以内に電話をとったので、これから出題するクイズに答える権利が与えられます』
こちらが黙っていることなど露ほども気にかけず、向こうは好き勝手に話を進める。この取り澄ました物言い、そのくせ人を舐めきったような態度。外部からの助け舟かもしれないとかすかに期待していたが、なんてことはない、それは三津屋中3年3組に所属する生徒の馴染み深い声だった。
「森上かいの……」
安心するやら呆れるやらで、全身から力が急激に抜けるのを感じつつ、要は森上茉莉(女子18番)の名を呼んだ。それにも反応しないまま、電話の主はクイズ番組の真似事を続けた。
『さて先ほど、4月29日正午の放送で発表された禁止エリアはどこでしょう。3つすべて答えなさい』
「あ?」
クラスメイトの声が聞けたと喜んだのも束の間のことだった。要はすぐに、茉莉がまともに話せる相手でないと気づいた。途端に失望の念が体の内部を蝕んでいく。
森上茉莉は、はっきり言って性格に多分の問題を抱えている人物だった。常に斜に構え、ふざけてばかりいる。いたずら好き、といえばかわいく聞こえるが、茉莉の繰り出すいたずらには笑えないものが多かった。昼食中にスプラッタービデオを再生してみんなの食欲を減退させたり、勝手にクラスメイトの遺影を作って本人の机に飾ったり。この間などは、要のアレルギー体質を知った上でゴム手袋に無理やり触れさせ、腕に表れた蕁麻疹を気持ち悪がりながらデジカメで撮っていた。あれがどんなに痒いことか――それを滔々と説いたところで、奴は微塵も反省しないのだ。
『ちっ、ちっ、ちっ、ファイブ、フォー、スリー』
要が答えないでいると、茉莉は早々にカウントダウンを開始した。この女のことは苦手だが、せっかくクラスメイトと話せるチャンスを無下にするのも癪だ。要は仕方なく、地図に書いておいた禁止エリアのメモを確認した。
「B=4、F=6、D=9」
『ぴぽぴぽぴぽーん。大・大・大正解! それでは第2問』
「まだ続けるんか」
要は心底うんざりしたが、茉莉は一向にお構いなしだ。
『同じく正午の放送で発表された死亡者のうち、11番目に名前を挙げられた人は誰でしょう』
人の生き死にまでクイズにするとは。茉莉の不謹慎な態度に怒りを覚え、説教してやろうと口を開いた。しかし放送の内容を思い出し、言葉を飲み込む。随分と回りくどいが、茉莉は結局この話がしたかっただけなのだろう。
「宮間、じゃの」
『そう。正解』
茉莉の声がにわかに沈んだ。
森上茉莉と宮間睦(女子17番)とは親友同士だった。茉莉がいくら悪行の限りを尽くしていようと、やはり人間なのだ、友人が死ねば悲しいのだろう。もし睦がいなければ、害意の塊である茉莉は確実に孤独になっていたはずだ。その恩に気づけないほど、奴が無頓着だとは思わない。
『では、第3問。睦はどうして死んだのでしょう』
会話はいまだクイズ形式のままだが、腹は立たなかった。
宮間睦はもう、紫色の髪を自慢することができないし、英語もしゃべれない。そんな実感が改めて胸に湧き上がり、要は強く目を閉じた。睦は柔道部で共に稽古を積んだ仲間であり、女嫌いの要が唯一気兼ねなく話せる女子だった。身なりこそとんでもないが、家庭でよく躾けられているのか、意外に要好みの品行方正な人物なのだ。
「……わからん」
深く息を吐く要に、茉莉は理不尽な要求をする。
『要くんね。君、副部長なんだから。部員のことくらい把握しとけよ』
「部活は関係なかろうが」
要がほとんど反射的に突っ込むと、すぐさま反論が返ってきた。
『あるよ』
茉莉はきっぱりと断言し、訴えかけるような口調で続けた。
『睦、君のこと好きだったんだよ』
「な……」
無意識的に息を呑む。予想だにしなかったその発言は、要の思考を真っ白に染め上げた。無防備な要の身に、破壊力のある言葉が休みなく襲い掛かる。
『睦、いつも言ってた。ワタクシはフクシュショウさんがいたから柔道部に入ったのですって。フクシュショウさんになら、叱られることさえ嬉しいのですって。だから、君とは一緒になってるものだと思ってた。どんな手を使っても、睦、要くんにだけは会いたかったはずなんだ』
こめかみの血管が脈打つのを感じた。そんな話は初耳だ。どんなに小言を並べてもショッキングピンクの柔道着を脱ごうとしなかったあの女が? 「マリさんの exciting さを very very 尊敬しています」などとのたまっていたあの奇人が? ――自分のことを?
「……嘘じゃろ?」
頬を引きつらせながらつぶやくと、ありがたいことに茉莉が即答してくれた。
『ぴんぽーん。せいかーい』
「あん?」
『やーい、ひっかかったひっかかった。うぬぼれてんじゃねえぞ』
きゃはは、という癇に障る笑い声が耳を突いた。一拍おいて、自分が騙されたことに気づく。怒りからなのか、恥ずかしさからなのか、みるみる顔が熱くなった。
「お前のう……!」
『でも、厳密には嘘ではないか。睦に直接確かめたわけじゃないから。もしかすると、当たらずとも遠からずかもしれないね。まあどっちみち、もう確かめようがないけど』
茉莉が急に真面目腐るので、返す言葉を失ってしまう。本気か冗談か区別がつかないのはいつものことだが、こう神妙な態度をとられると要は弱い。振り回されっぱなしの自分に呆れつつも、とりあえず、茉莉の行動を好意的に受け止めることにした。傷心を癒すためにこうしてふざけているのだと思えば、苛立ちもいくらか収まるというものだろう。
「どうやって電話かけとるんな? なんかの機械でも使っとるんか」
要は柔道の基本姿勢である自然体の構えをとり、精神を落ち着けると、置き去りにされていた疑問を投げかけた。
茉莉は女子にしては珍しく機械いじりが得意で、コンピュータにも詳しかったと記憶している。この島の電話はすべてプログラム担当官へつながる仕組みになっているらしいが、茉莉ならその知識を駆使して状況を打破できるのかもしれないと思った。
『それを君が知るためには全部で108つの問題に正解しなければなりません。挑戦を続けますか?』
対して茉莉の姿勢は相変わらずだ。要はすかさず次の問いをぶつけた。
「ほいじゃあ、いまどこにおる?」
『第4問』
「目的はなんじゃ?」
『ねえ、森上さん』
そのときだった。電話の向こうから、茉莉とは全く別の人物が、平行線をたどるやりとりに割って入った。要は突然のことに仰天し、スピーカーの部分を耳に力いっぱい押し付けた。
「鳴? いまの鳴か? 一緒におるんか?」
明朗快活で、しかしところどころがひっくり返っている声。小学1年生のときからの腐れ縁、竹岡鳴(男子10番)の声を要が聞き間違えるはずもなかった。ほんの一瞬だったが、久々に聞いたその間抜けな口調に、思わず胸が熱くなる。
しかし、なぜ鳴が茉莉のそばにいるのだろう。たしかに、睦と同じ部である要と、その友人の鳴はちょっかいの標的になることが多かったが、それにしてもなぜ?
しかし、そこは森上茉莉だ。素直に答えを用意してくれるほど親切な相手ではなかった。
『ああっと、残念! ここでお時間となってしまいました。それではまた来週。シーユー!』
茉莉は一切の質問を放り出したまま、発音のあやしい英語で別れを告げると、性急に電話を切った。
「あ、おい! もしもし、もしもし!」
お約束としてマイクに向かって呼びかけてみたが、すでに通信は途切れたあとだった。ツー、ツー、という無機質な音が、要の鼓膜に突き刺さる。結局要が手に入れたのは、泥のように重い疲労感だけだった。
さっぱり意味がわからなかった。電話をかけた方法を想像できないのは仕方ないとしても、目的さえつかめないとはどうしたことだろう。茉莉はただ、人をからかいたかっただけなのだろうか。ありうることだ、と要は思った。
性根の捻じ曲がった女のことを考え続けても気が滅入るだけなので、いま起きた出来事は忘れることにした。鳴のことも忘れるのは少し忍びないが、ふがいないことに打つ手はない。まったくもって、貴重な時間を無駄にしてしまった。早いところ人捜しを始めなければならない。
要は頭をがりがりと掻くと、指に挟んだままでいたインスタント写真を見た。花柄のカーテン、その隙間に覗く人影。要にはもう、頼りにするものがこれしか残されていなかった。
公衆電話のけばけばしい緑色に舌打ちし、それからクラスメイトたちが眠っている火葬場へ手を合わせた。コンパスをデイパックから取り出し、とりあえず北を目指そうと決める。また期待を裏切られたらどうする、という不安が降ってきたが、なにもしないよりは遥かに懸命だと自分に言い聞かせた。
【残り19人】