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 財官正(男子8番)はその犬と出会い、人間はやはり汚い、と思った。
 エリアにしてF=4、高い塀に囲まれた豪勢な邸宅の庭だ。偶然訪れたその場所に、赤い首輪を巻かれた黒い柴犬がいた。おそらくこの家の飼い犬だったのだろう。随分と長い間食料にありつけなかったのか、やせ細り、弱りきっている。
「あなたの飼い主は……あなたを置き去りにしたんですね……」
 正は犬の顔を見つめ、低く呟いた。全身に怒りがみなぎってくる。動物好きの正にとって、飼い主の行為は信じがたいものだった。
 黒柴は門扉の脇で力なく丸まっていたが、どうにか首だけをこちらに向けた。
「人間たちはある日突然住み家を追い出された。自分のことで精一杯だったのだ」
 落ち着いた、深みのある声だった。おそらくはすでに初老の域に達しているのだろう。半ば達観したようなその物言いが、正の悔しさをさらに増大させた。
「でも、でも、あまりに倫理観がなさすぎます」
「仕方のないことだった」
「そんなわけがないです。命を何だと思っているんでしょう。あなたをいくらでも取り替えのきくおもちゃ程度にしか思ってないんです。だからこんなことができるんですよ」
「私の主人を侮辱するな」
 活力を消耗してはいるが、黒柴の目には威厳が満ち溢れていた。そんな毅然とした表情を前にしては何も言えない。急にしおらしくなった正を見て、犬は少し肩をすくめた。
「そんなに縮こまることはない。わかっている。君は私のために腹を立ててくれたのだろう。感謝するよ」
「すみません」
「ほら、人間様なら人間様らしく堂々とせんかね」
 柴犬は微笑むと、正に向かってお座りの姿勢をとった。
「私はコクリュウ。黒い龍の黒龍だ。君は?」
「……財官正です」
「正か。私のことはリュウと呼ぶがよい。家の者はそう呼んでいた」
「リュウさんですね。よろしくお願いします」
 正が手のひらを差し出すと、黒龍はお手を返してくれた。
 傍から見れば、それはさぞかし不思議な光景なのだろう。そう、正は動物と会話することができるのだ。両親からは妄想癖があるのではと心配されたが、正の脳には動物の気持ちを日本語に翻訳する機能が備わっているのだった。少なくとも正はそう固く思い込んでいた。
 動物としゃべった最も古い記憶は、もうすぐ1歳になろうかというころのことだ。頭の中にぼんやりと浮かぶのは、母と共に散歩へ出かけたある昼下がり、ベビーカーから見上げた木漏れ日だ。公園へ向かう途中の並木道で、枝に止まっていたスズメが話しかけてきた。
「いいお天気ですね」
「ですね」
 これが、正の発したはじめての言葉となった。
 言葉が早い息子を母はたいそう誇ってくれ、成長してからもその感動体験をよく聞かされた。母は自分に対する言葉だと思っているらしいが、最初に正と会話を成立させたのはスズメだ。そう指摘すると、母は少し悲しそうな顔で言う。それは夢だったのよ。そういうことを、おそとでいっちゃだめだからね――。
 親でさえ信じてくれないのだから、他人が信じてくれるはずもない。異端の能力を隠そうとしなかった正は、常に周りから浮いた存在だった。遠巻きに気味悪がられるだけならまだいいほうで、時には面と向かって嘘つき呼ばわりされた。いじめられたことも、少なからずあった。
 小学校も中学年へ上がったころには、虚言症のレッテルがすっかり剥がれなくなっていた。誰もが正の言葉を疑い、誰もが正の相手などしてくれなかった。そんな正が人嫌いになるのは当然の流れだといえるだろう。正はいつしか、動物にしか心を開けなくなっていた。
 人間の友達などできたことがなかった。中学生になるころには欲しいとも思わなくなっていた。人間は意地悪をするが、動物は裏切らない。両親は正の妄想が悪化することを危惧してペットを飼わせてくれなかったが、正の周りにはいつも動物であふれていた。近所の野良猫や、川で群れる魚たち、学校で飼われているウサギやニワトリ。誰もが正を受け入れてくれ、誰もが仲良くしてくれた。彼らがいたから、正には人間など必要なかったのだ。
 だがある日、そんな状況に少し変化が表れる。
「左右田……藤井……」
 正は黒龍の手を握ったまま、膝からくずおれた。地面に額がつきそうなほどうなだれた正に、黒龍が不思議そうな顔を向ける。
「どうした」
「奴らはもう戻ってこないんです」
 正は流れる涙を拭うこともせず、ふたりの顔を思い浮かべた。
 左右田篤彦(男子9番)は1回目の放送で、藤井雪路(男子15番)はつい先ほどの放送でそれぞれ名前を呼ばれた。まさか人間の訃報がこれほど身にこたえるなんて思ってもみなかった。他の誰が死んでも当然の報いだとしか感じなかったが、ふたりだけは違う。彼らは正にはじめてできた人間の友達だったのだ。
 あれは中学2年に上がってすぐのことだ。クラス編成で今の3組が形作られ、そろそろクラス内にグループができあがってきたかというところで遠足が実施された。場所は動物園、正のホームグラウンドだ。
 出席番号順の6人班で行動することになっていたのだが、担任がいい加減だということもあってか、取り決めを守る者は少ない。正もそれに乗じ、ひとり気ままに園内を巡ることにした。
 両親は正が動物と接するのを嫌ったので、動物園にはあまり連れていってもらえなかった。しかしひとりでならこっそり何度も訪れた地だ、園内マップは完璧にインプットされている。正が特に好きなのは、ヤギやミニブタなどの動物と直接触れ合える“わくわく広場”だ。先生から自由行動が告げられると、正はまっすぐに広場へ向かった。
 そこでたまたま居合わせたのが左右田篤彦だった。最短経路を熟知している常連客の先を越す者がいたことは意外だったが、なにより正を驚かせたのは、篤彦がミニブタと話をしていたことだ。
「お前、体重いくつ? ふーん、そうだよな、知ったこっちゃねえよな」
 正は仰天し、すぐさま篤彦に尋ねた。あなたは動物の言葉がわかるんですかと。篤彦はまずいところを見つかったというような顔をしていたが、やがてはにかみながらも答えてくれた。
「まあ、ブタに限ってならちょっと、なんとなくだけどわかるよ。うち、ミニブタ飼ってるからな」
「自分もです。自分も動物と会話できます。ブタとも、犬や猫とも、鳥も魚も、すべて」
 正はすっかり興奮して、自分の特異な体質を暴露してしまった。言い終えてから、憂鬱な気分が押し寄せてくる。人前でこうして能力自慢をするとき、たいてい相手は顔を引きつらせ、潮が引くように遠ざかっていくのがお決まりのパターンなのだ。しかし篤彦の反応は、過去に経験したどれとも一致しないものだった。
「え、まじで? すげえじゃん」
 左右田篤彦は、正に共感してくれたはじめての人間だった。
「いいなあ」
 篤彦の好意的な態度に理解がついていかない中、真っ白な頭に口を挟んでくる者があった。声を掛けられてから気づいたのだが、正のすぐそば、藤井雪路が睡眠中のヒツジを枕にして寝転がっていた。篤彦も気づいていなかったらしく、「うおっ、いつからいたんだ?」と驚いていた。
「どうせおれは存在感ないよ。いいなあ。そんなびっくり能力持ってたらおれもちょっとは目立つだろうな。テレビに出れるんじゃない? がっぽがっぽだよ」
 藤井雪路は、正を羨望の眼差しで見てくれたはじめての人間だった。
 彼らだけは正を疑わなかった。彼らだけは正を拒否しなかった。彼らがいなければ人間の友達など一生できなかっただろう。しかし、ふたりはもう死んでしまった。
「人間なんてただの害悪だと思ってました。食物連鎖の頂点に君臨していると錯覚し、人間の命は地球よりも重いなどと戯言を吐き、他の生物を蹂躙することに何のためらいもない。でも、奴らは少し違いました。人間にしては珍しく、信頼に足る奴らだったんです」
「そうか」
 黒龍はただ静かに話を聞いてくれた。
 左右田篤彦とは出席番号が近いため、その気になれば合流できた。しかし長年育ててきた人間不信の木はやはり根深く、正はこのプログラムをひとりですごすと決めたのだった。その選択はいまでも間違っていなかったと思うが、だからといって友の死を嘆かないわけはない。正は握りこぶしを地面に叩きつけた。
「もう救いがありません。人間が勝手に作った愚かな常識に惑わされない、奴らのような賢明な者を、この世界は排除しました。自分は3組が憎い。天罰が下ればいい。いいや、この手で地獄に突き落としてやりたいです」
 無意識のうちに歯軋りが口から飛び出す。犯人を突き止めるなんてまどろっこしいことはせず、手当たり次第に殺してまわりたい気分だ。正を除いた残り18人全員がいまや敵でしかなかった。
「本当に救いはないのか」
 諭すような声色で、黒龍が語りかけてきた。正は強く頷いた。
「ありません。あるわけがないです」
「そうだろうか」
 黒龍が自らの背後を一瞥する。彼が何を言わんとしているのかわかりかねたが、とりあえずその視線を追った。ふさふさした巻尾の先にビニールの袋が落ちている。
「これは……」
 この国のシンボルである桃印がプリントされた、両手に収まる大きさの袋だ。今プログラム参加者全員に支給されているであろうコッペパンの包みだった。
「これは、まさか」
 黒龍は無言だったものの、かすかに頷いたように見えた。その口元をよくよく見ると、パンのかすのようなものがくっついている。正は思わず息を飲み込み、地面の袋をまじまじと凝視した。
 正も半日ほど前にひとつ食べたが、ゴミはきちんとデイパックの中に入れてある。つまりこの袋は正以外のクラスメイトが捨てていったものなのだ。それを認識した瞬間、体の中で雷鳴が轟いた。
 正が訪れる前、ここに誰かがいた。そしてその誰かは、貴重な食料を黒龍に譲った――。
 にわかには信じがたいことだった。なにせパンはたったのふたつしか支給されていないのだ。ただでさえ足りないものを、それも見ず知らずの犬に惜しげもなく放出するなど、動物好きの正でさえ躊躇するところだ。人間の中に、しかも同じクラスの中にそれほど慈悲深い者がいるとは、天と地がひっくり返るほどの衝撃的事実だった。
「リュウさん、これをあなたにくれた人はどんな人でした?」
 正が鼻息を荒くしながら袋を指し示すと、黒龍はすまなそうに小首を傾げた。
「人間の顔は皆同じに見えるのでな」
「ですよね……」
 正はがっくりと肩を落とした。答えを先延ばしにされた途端、その菩薩のような人物を猛烈に知りたくなった。篤彦か雪路だろうか。そうかもしれないが、もしそうでなかったら。もう一度、人間に希望を持てるかもしれなかった。
 どうすればいいだろうと考え、すぐに思いついた。急いでデイパックを地面に下ろし、中から紙の箱を取り出す。正の武器、“指紋採取キット”だ。ミステリードラマじゃないのだからと呆れて放っていたが、ついにこれを活用できる機会が訪れたのだ。捨てなくて正解だった、と正は胸をなでおろした。
 小瓶に入ったアルミニウム粉末を、棒のついた綿球にふりかける。それでパンの包みを軽くはたき、指紋を白く浮かび上がらせる。きれいな形で残されている指紋は5つ。そのうち確実に親指だと思われる一番大きな指紋をフィルムに写し取り、トランプ大の黒い台紙に貼り付ける。これで採取完了だ。
 いつ採取したのか甚だ疑問だが、クラス全員分、両手すべての指紋データを一覧にした冊子もデイパックの中に入っていた。そのサンプルと検出した指紋を比較すれば、黒龍を救った人間が誰かわかるわけだ。
 とりあえず男子1番から順番に見比べていく。素人目にはどれも同じに見えたが、天使の正体を探し当てたい一心で指紋照合に没頭した。何度もページをめくっては戻るを繰り返した。目を皿にして冊子の黒い指紋とフィルムの白い指紋を見つめた。黒龍が隣で見守る中、ずいぶんと時間をかけ、ようやく答えに行き着いた。
「あなただったんですね」
 正はリストに印字された名前を見、その人物の顔を思い浮かべた。茶色い髪、抜けるような白い肌、無邪気な笑顔。今まで意識したことなどなかったが、確かに天使を思わせる、とても可憐な少女だ。心根が美しいと気づかされた瞬間、思い返す彼女の姿が後光を背負っていた。
「リュウさん。質問があります」
 採取した指紋を冊子へ丁寧に挟んだあと、正は黒龍に向き直った。黒龍は正が欲していることをいち早く察したらしく、口元に笑みを浮かべた。
「何でも言ってみるがいい」
「リュウさん、このパンの残り香を辿ることはできますか? 西村さん……いいえ、西村様のもとへ!」
 先ほどまで脳を支配していた憎悪の念は消え去り、変わりに天使――西村美依(女子9番)の澄んだ笑い声がこだました。
 西村美依に会いたい。会って何をするのかまだわからないが、ただ会いたかった。正の中で西村美依の存在が急激にふくらみ、やがて彼女のことしか考えられなくなった。
 これが人間で言うところの憧れという感情なのか、と正は思った。
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