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 鼻先にあるジンチョウゲの花が積極的に甘い匂いを放っている。芳香が全身に絡みつき、しばらくは息をするのも困難なくらいだったが、西村美依(女子9番)はすでにその強い香気に慣れていた。白く小さな花がいくつも肩を寄せ合い、まるで居眠りでもしているように、こくりこくりと揺れている。そんな趣のある様子を眺めていても、とても仏頂面がほころびそうになかった。
 というのも、木下亜央(女子3番)高橋絹代(女子5番)の姿が見えないからだった。彼女たちは休息をとるために建物の中に引っ込んでしまったのだ。
 寝るつもりかもしれない、と美依は思った。彼女たちは体力と気力を消耗しきっている様子だ。そんなところへ目の前に真っ白なベッドが現れでもしたら、美依だって誘惑に負けてしまうだろう。
 一度つながった公衆電話は、残念ながら二度と鳴らなかった。亜央と絹代は小一時間ほど、商店の中でおしゃべりしたり売り物のお菓子を勝手につまんだりしながら待機していたのだが、電話はうんともすんとも言わなかった。そんなわけで、電話をかけてきた人物はまだ判明しない。当然目的もわからないのでなんとも言いがたいが、電話という顔の見えない道具を使うあたり、なんとなく陰湿だ。亜央が取った直後に切れたというのも、まるで無言電話のようである。電話の主の正体は気になるが、あまり関わりあいたくはなかった。
 彼女たちはやがて、本来の目的であった“殺したいひとり”捜しを再開することになった。やれやれやっとかと美依が安心したのも束の間、やはり絹代が「疲れた」とごね始め、ちょうど通りかかった建物へ亜央を無理やり連れ込んでしまった。ガラス張りの玄関越し、ふたりが正面の部屋へ入るのを確認してからその裏手へ回ったものの、ターゲットたちの挙動は厚い壁とカーテンに遮られていた。ためしにモルタル塗りに耳を当ててみたが、人が動いている雰囲気がなんとなく伝わってくるだけで、何をしているのか判断することはとうてい無理だった。姿を見物することもできず、会話を盗み聞きすることもできず、美依はただただ目の前にあるジンチョウゲの生垣を眺めるしかないのだった。
 ちょっとしたホテルのようなその小奇麗な3階建てには、“特別養護老人ホーム・寿幸苑”という立体的な文字が貼り付けてあった。ふたりにぴったりのおめでたい名前だと、ひとりでちょっと笑ってみた。笑ったまま、つぶやいた。
「つまんない」
 老人ホームを囲む垣根は高さが1mほどあり、内側に座っている美依をすっぽりと覆い隠している。それは同時に、美依からも外の景色を遮断した。暇をつぶすのは不得手だ。こんなことなら亜央を見習ってメルヘンの世界に浸る練習でもしておけばよかった。
 それに、壁と生け垣の隙間は、人ひとりがやっと通れるくらいの幅だ。美依はひどく窮屈な思いをしなければならず、今回ばかりは、寝転んでも小躍りしても充分にスペースが余る我が家の4LDKが恋しくなった。
 しかたがないので、ブレザーのポケットから折りたたみ式の鏡を取り出す。自分の顔を見てうっとりするような趣味があればよかったのだが、あいにく美依は自己愛が希薄なほうだった。それでも、身なりを整えれば少しは気が紛れるだろう。美依の気ままな猫っ毛は、ちょっとしたことですぐに臍を曲げてくしゃくしゃにもつれてしまうのだ。
 手で髪のもつれをほぐしながら鏡を開いた。小さな真四角の形をしたガラス面に、全体が白茶けた、いかにも儚げな女の子が映し出された。幼い頃はいやでしようがなかった顔だ。
 両親の部品が絶妙なバランスで組み合わさった結果、美依の面差しは東亜国民らしくなくなってしまった。その上、これは父方の家系から受け継いだものだが、生まれつき色白で髪と瞳は薄茶色だ。
 この外見のおかげで、小学生の頃は肩身の狭い思いをしたものだった。いじめられやしないかと縮こまり、自分の気配を消しつつ生活する、そんな気の小さな子供だった。同級生や上級生から「お前ってガイジン?」と本気で尋ねられるたび、自分の影を薄くするようつとめた。髪はショートだったし、白い肌を露出するような半そでやミニスカートは絶対に着なかった。学校にいる間は極力じっとしていた。それでも、人の目が気になってしかたなかった。
 根尾倫香(女子10番)と仲良しになったのも、倫香の「あなたかわいいからお友達になってあげる」という鶴の一声がきっかけだった。まったくもって小学校の頃は、この容姿が引き寄せたものといえば厄介なことばかりだ。
 生まれたときから周りの子と違っていたから、“普通”は美依にとっての憧れだったのかもしれない。小学校4年生のとき、外見だけでなく性格まで異質だと気づかされてから、憧れはさらに強くなった。小学校5・6年生の間、クラスメイトたちを観察し、街行く人たちを観察し、テレビに出ている人たちを観察し、“普通”とはなんたるかをひたすら研究した。“普通”と“変”の見分けがおぼろげながらついてきたころ、夜な夜な鏡の前で“普通”の人たちの表情やしゃべり方を真似てみたりした。小学校生活が終わる頃には、テストで平均点をぴったりとることもできるようになっていた。そうしたたゆまぬ努力の末、暗く孤独な変人ライフから一転、“普通の子”として輝かしい中学デビューを果たしたのだった。
 とはいえ、外見はそう簡単には変わらない。髪を黒く染めることも考えたが、美依はあえて強調する道を選んだ。無理に隠そうとすると悪目立ちする、2年間に渡る人間観察をもとにそう判断したのだ。素材を活かすことはごく“普通”の行為だとの思いからだった。
 そのおかげで、中学にあがってからも“西村美依は米帝が送り込んだ諜報員”などという愉快な噂が発生したりして、純真な心を持つ一部の生徒に警戒された時期があった。明らかなでたらめだとわかっていても、それを聞いたときは動悸が止まらなかった。
 世間一般に見て、自分が可愛い部類に入ることを今では承知している。ただ、好きになるまでには至らない。この先――生き残れればの話だが――どんなに年を重ねたとしても、“普通”に惹かれる心は消えないのかもしれなかった。
 ふう、とひとつため息をつく。気を取り直すため、改めて鏡を見た。
 髪型はすでに完璧なセンターパートにセットされていた。ネクタイが少しだけ曲がっていることに気づき、きゅっと締めなおす。ブレザーの襟を伸ばし、肩についていた小さな葉っぱを指で弾き飛ばした。舞い上がった葉っぱの行方を鏡越しに目で追い――
 ぎょっとした。
 鏡に映っていたのは、青いカーテンのわずかな隙間から覗く目だった。つりあがった細いその目と、美依の見開かれた目が、鏡の中でかちあった。
「あら、西村ちゃんじゃないの」
 美依の真上にある窓が開き、中から湯浅荘吾(男子18番)のキツネ顔がひょっこりと現れた。美依は不意のことに仰天し、慌てて駆け出す。しかし窓枠を軽々と飛び越えてきた荘吾にデイパックを掴まれ、あっさりと身の自由を奪われた。
「はい、怖くない怖くない。安心してちょうだい。高橋の絹ちゃんと木下の亜央ちゃんもいるよ」
 部屋の中にいるのは女の子ふたりだけだと油断していたので、荘吾の登場は美依を震え上がらせた。捕らわれ人になるなんて、取り返しのつかない失態だ。恐る恐る振り返ると、湯浅荘吾の片笑みの向こう、絹代と亜央が窓から身を乗り出してこちらを見ていた。
「ほんとだ……西村美依さんだ」
 木下亜央が感慨深げにふたつ結びの髪を揺らす。
「美依ちゃん! よく生きてこれたね! 元気?」
 高橋絹代が無遠慮な大声ではしゃぐ。
 美依がターゲットたちを傍観するという図式が、もろくも崩れ去った瞬間だった。美依の額を一粒の冷や汗が伝った。

【残り20人】