ジリリリリ。ジリリリリ。
電話は狂ったように鳴り続く。
ジリリリリ。ジリリリリ。
仁は遼子を凝視したまま固まっている。
ジリリリリ。ジリリリリ。
遼子は顔が青ざめるのをはっきりと感じた。幼なじみが人を殺めたという事実、加えて電話の怒号のおかげで、精神がどうにかしてしまいそうだった。
しかし――と、わずかに残っている沈着さが首をもたげる。状況から察するに、これは過失なのだろう。たまたまカメラ好きの鳥居雅治が、たまたま臆病な仁と出会った。たまたま仁がボウガンを持っており、たまたま鳥居雅治が矢の行く先にいた。複数の偶然が重なった、不運な事故だったのだ。
その鳥居雅治はというと、いつものぼんやりとした目で雑木林を見つめていた。矢が栓の役割をはたしているのか、コンクリートの地面に血の赤は見られない。胸が上下していないところを除けば、緊張感の感じられない光景だった。
それが血まみれの惨たらしい死体であれば、仁は確実に落ち着きを失っていただろう。だが、今ならまだ話のできるゆとりがあるかもしれない。未だ鳴り止まない電話の音を意識から弾きながら、遼子は仁に囁いた。
「言い訳して」
八の字に下がった仁の眉がわずかに動く。おそらくは、突然の言葉に理解がついていかなかったのだろう。遼子は淡々とした調子で続けた。
「どうしてこうなったのか、理由を話すの、仁。間違って撃ったのか、故意なのか。どっちでもいい。自分を正当化してごらんよ」
このようなことを仁に求める狙いはふたつほどあった。ひとつは、無理にでも頭を使わせることで、混乱に呑みこまれそうな理性を繋ぎとめるため。もうひとつは、これは仕方の無いことだったと認めさせることで、必要以上に自らを責めさせないためだった。
仁は本来、言い訳を嫌う性格だ。宿題を忘れたことを数学教師に咎められたときも、風邪をこじらせた祖母の介抱に忙しかったなどとは口が裂けても言わなかった。自分の立場がどんなに危うくなろうと、周りの人さえ傷つかなければ構わないのだ、このいい子ちゃんは。
だから、こちらから先にその単語を出してやることで、言い訳に対する抵抗を軽減させようと考えたのだった。遼子はとにかく、仁に悪意はないと証言させたかった。
「誰も責めたりしない。ほら、言い訳して」
度重なる要求が功を奏したのか、仁の強張った唇が開きかけた、そのときだった。
――リン。
やかましく鳴り続けていた電話がぴたりと止まり、耳鳴りがふたりの鼓膜に突き刺さった。
それがきっかけになったのかもしれない。遼子が緑電話に流し目をくれ、再び視線を戻したときにはもう、仁はボウガンをこちらに向けていた。その顔は紅潮し、眉はつりあがり、口は今にも叫びだしそうな形に開かれている。彼がこれまで見せてきたものと全く違う、優しさを欠いた形相だった。
「仁」
遼子が慎重に呼びかけるも、仁はかまわず攻撃を開始した。矢は明後日の方向へ飛んでいったが、遼子をおののかせるのに充分な力を持っていた。
いや、震えの原因は恐れではない。頭の頂上から足の先までを貫く、凍て付くような怒りだった。14年間という月日を、奴はいとも簡単に打ち破ろうとしている。プログラムに選ばれたことや、西村美依に逃げられたこと、クラスメイトが目前で死体と化したことなど比較にならないほど、遼子にとってそれは許容しがたいことだった。酌量の余地があるとはいえ、頭痛の悪化を止めることはできなかった。
「仁」
最後通告を突きつける気持ちで、先ほどより威圧的に、幼なじみの名を呼ぶ。これで正気を呼び戻せればと期待したが、仁の狂乱が鎮まる気配はなかった。仁はボウガン下部にストックされている予備の矢から1本を抜き、装填した。遼子は温度をなくした手で、ゴルフクラブを握りしめた。
赤い矢が放たれるのが速かったか、それともアイアンが振り下ろされるのが速かったか。遼子と仁は申し合わせたように駆け出し、お互いに無言のまま、攻めかかった。結果、矢はやはり遼子にかすりもせず、反してアイアンは的確に仁の脳天を捉えた。一点の歪みもなかったシャフトが、衝撃に耐え切れずくの字に折れ曲がった。
乾いた音をたて、仁がコンクリートに沈み込む。遼子は肩で息をしながら、幼なじみの坊主頭から血が溢れ出し、足元に広がっていくさまを見つめていた。悲しみや自責の念が湧き上がってきていいはずなのに、感じるのは冷たさと、ゴルフクラブを握る手のひらの痺れだけだった。
アンティークウォッチに目を落とすと、公衆電話が鳴り始めてから10分も経っていないことに気づいた。そのほんの短い時間で、事態があまりに大きく変わってしまった。感情が順応していかないとしても不思議はない。
ぐったりと横たわっている仁へ歩み寄る。呼吸を確認するため鼻先に耳を近づけようとしたとき、ふいにうめき声が聞こえた。遼子はほっとすることもがっかりすることもないまま、仁の口がぎこちなく動くのを見守った。
「ごめん……」
仁が隙間風のようにか細い息を漏らす。謝って済む問題かと罵ってやりたくなったが、それはどうやら遼子に言っているのではないようだった。
「忘れてた……」開いているのかいないのかわからないほど細い目が、いっそう垂れ下がる。「ごめんって……やっぱり無理だったって、伝えなきゃいけなかったんだ……」
言いながら、坊主頭をさすった。傷の具合を確かめているようにも見えたが、遼子にはそれが、困ったときに決まって見せる彼の癖なのだとわかった。声をかける気にはなれず、遼子は黙って続きを待った。
「平野くんに、伝えなきゃいけない……古屋さんから、頼まれたのに……」
意外な名前が挙がった。平野要(男子13番)と古屋祥子(女子15番)。硬派で無愛想な男と、男子が苦手でおとなしい女の子だ。校外での対人関係は遼子の知るところではないが、少なくとも教室で一緒にいるところを見たことはないし、気が合いそうにもない。さらに、女の子が苦手な仁が祥子からあてにされるというのも不可解な話だった。3人はたまたま同じクラスにいるだけという、極めて無関係に近い間柄だ。余程のこと――たとえばプログラムとか――がない限り、深く関わりあうことはないだろう。
「夜のうちに古屋さんと会ったの?」
もしかしたらと思い、遼子が訊ねると、仁はほんのかすかに頷いた。古屋祥子は1回目の放送で死亡者リストに加えられている。プログラムが開始した昨日21時頃から翌0時までの短い間に、仁と祥子は出会っていたのだ。
「ごめん……」
仁は再度その文句を口にした。胃が痛むのか、それとも神様かなにかに懺悔したいのか、鳩尾の上で両手を固く組んでいる。仁は、ごめん、ごめんとうわごとのように繰り返し、しまいには嗚咽を交えながら、「ごめん、みんな」と付け加えた。
“みんな”の中に自分が含まれていないことを、遼子はすぐに悟った。仁の視線が遼子を飛び越え、もっとずっと遠くに向けられていたからだ。“みんな”とは誰なのか、そして仁と古屋祥子の間になにがあったのかは知る由もないが、祥子が死に、仁が生きている(瀕死の状態だが)という事実が、少なからず彼を苛めているように思えた。もはや彼の頭の中には、幼なじみの入る隙間などこれっぱかしも残されていなかった。
古屋祥子の方が自分より重要視されていることに悔しさを覚えないわけではなかったが、腹の中に渦巻く憤りは次第に影を潜めていった。
異様な形相。命中しなかった矢。謝罪の言葉。胃痛――。冷静になって記憶を辿ってみると、仁の魂胆が笑いたくなるほど明確に見えてきた。
遼子が仁の行動を把握できていない空白の時間、彼の身には様々なことが起こったのに違いない。古屋祥子や“みんな”へ、強く罪悪感を抱かせるような出来事だ。その上へ最大級の罪、鳥居雅治殺害が圧し掛かった。人から借りたシャーペンのキャップをなくしただけでこの世の終わりみたいに落ち込む仁のことだ、過ちの重さに耐え切れず、自らの死を望んだとしてもおかしくはなかった。
遼子はこう結論づけた、これは自殺だと。攻撃するふうに見せかけることで遼子の怒りを誘発させ、殺させる。いささか変わった手法ではあるが、これは仁の意思だったのだ、と。彼と付き合ってきた14年間が、そう考えて差し支えないと語りかけていた。
「もういい」
ごめん、ごめんを繰り返している仁に、遼子は言った。
「もうなにも考えなくていい。ぼーっとしときなさいね」
仁の顔の前で手をかざす。その瞳に幼なじみの女を映さないまま、彼がまぶたを閉じればいいと思った。あのどうしようもなく鈍臭い仁が他人に一杯食わせたとすれば、遼子は感嘆を禁じえない。その巧妙さを賞賛するかわりに、胃痛の原因を少しでも排除し、苦しみを和らげてやりたかった。
「ごめん」の声が消え、満面を染めていた朱も引いていった。血は止めどもなく流れ続け、勾配のゆるくついた地面を下っていく。やがて手のひらが温かい吐息を感じなくなった。遼子は仁の視界の妨げになっていた手を引っ込めると、その表情が安らかであることを認めた。
醜くくぼんだ坊主頭を撫で、短い髪の感触をひとしきり味わう。鳥居雅治ならこの光景をどう撮るだろうなどと考えながら、離れたところでひとり寝転がっている雅治を振り返った。
その瞬間、思わず口をぽかんと開けてしまいそうになった。薄暗い林の中、さきほどまで遼子が立っていたあたりに、願ってもない来客を発見したからだ。
「……よかった、手間がはぶけた」
仁が祥子に託された伝言の送り先、平野要がクヌギの陰からこちらを見ていた。浅黒いその顔には、困惑とも呆れともとれる曖昧な色が浮かんでいた。
男子14番 広瀬仁 死亡
【残り20人】