35
 政府支給のしみったれた腕時計ではなく、中学入学記念として祖父母からプレゼントされたアンティークウォッチを、吹坂遼子(女子13番)は一瞥した。もうすぐ9時になる。この墓地が入場禁止になる時間だ。
 枝を広げた広葉樹と霞が日傘になり、辺りは朝だというのに暗く、静かだ。ここに留まっているのは自分だけなのに違いない。あと数分もすれば首輪は爆発してしまうし、もとより死を濃く連想させる場所になど、命を懸けた試合の最中に訪れたくないと思うのが当然の心理だろう。
 だからこそ、遼子は墓地を落ち着き先として選んだのだった。他人と遭遇しないこと、それが目下一番の目標だ。誰とも会わなければ、殺されることも、もちろん殺すこともない。余計なエネルギーを使わずにすむ。普段から馴染まなかった冷淡な性格が今になって受け容れられるとは考えにくかったから、遼子はいっそのことクラスメイトを敵と割り切ることにした。たまたま他人事ではなくなった禁止エリアというシステムも、ちょうどいい虫除けになると思った。このC=1エリアにいれば、少なくとも9時までは身の安全が保障されるわけだ。
 ――私は無事。いたって健在。だけど奴はどうだろうか。
 石と共にじっと夜を越している間、幼なじみのことが何度か脳裏をよぎった。彼とは生まれた頃からの付き合いであり、遼子がクラスで唯一気を許せる人物だ。だがある事情によって、ふたりはいま別々の場所にいる。これほどの長い間を彼の所在がわからずに過ごしたのは初めてかもしれなかった。隣同士の家に産まれてこのかた、一日でも言葉を交わさなかった日はないのだ。
 午前0時と午前6時、どちらの放送でも名前を呼ばれていないところからすると、どうにかして生き長らえてはいるのだろう。だが、極端に気の弱いあの少年が良好な精神状態を保っていられるとは思えなかった。この環境下では淘汰されるのも時間の問題かもしれない――。
 遼子はため息をつき、幼なじみの頼りない顔を頭から取り払った。我ながら友達甲斐がないとは思うが、感傷に浸っている暇はない。
 限界が近づきすぎていた。そろそろ移動しなければ、人間にではなく首の機械に殺される。もの言わぬ死者のみが集うこの場所は心地よかったが、遼子は未練を断ち切り、苔むした墓碑と石灯籠の間から立ち上がった。
 そのときひんやりとした風が吹き、厚紙のようなものがどこからか舞ってきた。それは遼子の足元、小石敷きの地面に突き刺さった。メタルフレームの眼鏡を掛け直し、紙の正体を確かめる。ポラロイド写真だ。撮影されたのは夜らしく画面が真っ黒だったが、この墓地が被写体であることはかろうじてわかった。
 どうして写真なんかがここに、と考えるやいなや、遼子は身を低くしていた。
「はい、チーズ」
 墓石に頭が隠れるか隠れないかの瀬戸際で、カメラのシャッター音が鳴り響いた。聞こえたのは背後、墓地の脇を通っているコンクリート道の方からだ。相手の姿は確認していないが、3年3組でカメラを持ち歩いている人物といえば鳥居雅治(男子11番)しかいない。写真部のあのうすぼんやりとした少年に、いつの間にやら近寄られていたのだ。このエリアに人は残っていないだろうと油断したのがいけなかった。
「あ、隠れなくても。記念写真撮っただけなのに」
 雅治の声はやや遠く、こちらに近寄ってくる様子はなかった。しかし遼子は気を引き締め、支給武器であるゴルフクラブを構えた。ポラロイドカメラから排出された印画紙を振っているのだろう、ぱたぱたと音がする。
「あ、吹坂かあ」
 雅治がそこではじめて遼子の名を呼ぶ。すばやく陰に潜んだつもりだったが、写真には遼子が写りこんでいたようだ。遼子は控えめに舌打ちした。
「ちょっと、教えてほしいことがあるんだけどさあ」雅治は間延びした声で続けた。「吹坂ってドライだからなあ。教えてくれないかね」
 普通の神経をした人間なら、遼子のことは警戒して然るべきだった。遼子は端的に言えば嫌われ者なのだ。冷淡な性格が災いし、ごく親しい友人以外のクラスメイトからはすこぶる評判が悪い。人間関係をこじらせて吹奏楽部を退部した過去まであるほどだ。
 しかし雅治は、怖がりもしなければ焦りもしない。彼はいつもこんな調子だった。カメラのこと以外には興味がないらしく、学校にいる間中ぼんやりしているか寝てばかりいる。もしかすると、ルール説明や島内放送もよく聞いていなかったのかもしれない。この落ち着きようからすると、少なくともここがじきに禁止エリアになることを知らないのだろう。
「ずっと探してるんだけど、見つからなくて。池ってどっち?」
 遼子が返答しないことなどお構いなく、雅治はのんびりと尋ねた。
 とりあえず、頭の中で島の地図を広げてみる。月家具プログラム担当官が「小学校から東へ1キロ行ったところに釣りのできる池がある」と言っていたが、際立った池はそれくらいしか見当たらない。東の端にある池を西の端にある墓地で探しているというのはおかしな話だが、鳥居雅治らしいといえばらしかった。
「青木と待ち合わせしてんだあ、池で」
 遼子は黙ったまま、時計に目を向けた。有余はあと5分。
「でも、迷っちゃって。同じところをぐるぐる回ってる気がするんだよなあ」
 一方、雅治は立ち去ってくれそうにない。左のこめかみに持病の偏頭痛を感じながら、遼子は首を振った。少し危険を伴うが、禁止エリアと雅治からいち早く逃れる方法をとることにする。
「憑かれてるのかねえ、何かに……え、なに、あっち?」
 雅治が言葉を止める。おそらくは、枯れて朽ちた菊や鉄砲ユリの後ろから突き出た腕を見、それの指し示す方向を確認しているのだ。
「ありがと。助かった。吹坂も気が向いたら来るといいよ、池に」雅治は少しばかり声音を明るくした。「せっかくだからあげる、さっき撮ったの。じゃあ」
 手を引っ込め、そっと墓石から顔を出すと、見慣れた寝癖頭が池のある東南東へ歩み始めたところだった。その先は道なき山林だったが、雅治は臆することなく枯葉の積もった下り斜面に分け入った。遼子に教わった方角へ、律儀にもまっすぐ突き進もうというのだろう。そんなことではまた道に迷うに決まっているが、忠告はしなかった。このままさまよい続けて野垂れ死にでもしてくれれば、競争者がひとり減った分だけ試合運びが楽になる。
 厄介者が墓の外柵に隠れて見えなくなった頃、遼子はようやく腰を上げた。
 先ほどまで雅治が立っていたあたりに差し掛かると、数枚の写真が落ちていることに気づく。夜のうちに撮られた敷石や、朝日に赤く染まった墓石の刻字など、撮影時刻は違えどすべてが墓地を写したものだった。雅治はその言葉どおり、道に迷ってはここへ辿り着き、を繰り返しているのだろう。遼子は雅治と知らぬ間にニアミスしていたことに驚きつつ、その中の一枚に目を止めた。そして、しばし息を詰めた。
 夢で見る一場面を切り取ったような、覚束ない写真だった。写っているものは墓地と遼子のはずなのだが、陰気臭いというより、どこか不思議な雰囲気が漂っていた。木漏れ日が朝霞に幾すじもの光を浮かび上がらせ、その奥、墓石からわずかに覗く遼子の横顔は空気と同化しそうなほど透き通っている。雅治がファインダー越しにこういう世界を見ているのだと、今の今まで知らなかった。
 不本意だが、いつまでも魅入られているわけにはいかないので貰い受けることにする。遼子は写真をブレザーのポケットに入れ、雅治とは違う方向、北を行くことにした。もたもたしてはいられない。
 時間にして1分あまりの出来事だったが、疲れがどっと肩に圧し掛かっていた。人と関わりあうことはなぜこうも苦痛を伴うのだろう。運動不足の身体で先を急ぎながら、遼子は思う。
 プログラム開始以降、クラスメイトと出会ったのはこれが2度目だった。いや、1度目はこちらが一方的に見たと言った方が正しいかもしれない。それほどに小さな、ほんのひと刹那の出来事だった。だがそれによって、遼子の前途は少しばかり狂わされてしまったのだった。
 星空の下、友人の茶色い髪が駆けていく。遼子はその名を呼ぶが、彼女は振り返らない。少しだけ跡を追い、再び声をかける。だが彼女は遠ざかるばかりで、やがてその先の巨大な影に溶け込んでいく――。
 校舎を出てすぐのことだ。遼子は自分から逃げた西村美依(女子9番)を見つめながら、彼女は“ゲームに乗る”側の人間なのだと思った。勘にすぎなかったが、それは確信に近かった。
 2年のはじめに親しくなってからこれまで、遼子の前で美依は常に陽気だった。お菓子が好きで、かわいいものが好きで、恋の噂が好きな、ごくごく普通の女の子だった。ビスクドールのように可憐な顔立ちが人目を引くが、中身だけ見れば周りに埋もれてしまうのではないだろうか。
 その完璧なまでの普通っぽさに、遼子は得体の知れない違和感を覚えていた。彼女の振る舞いが上滑りしているように感じられてならなかった。すべてが演技なのではないか? そう疑い始めた矢先、プログラムに巻き込まれることになる。
 そして今から半日前、ゲームへの強制参加を宣告されたときに、予感が決定的なものになった。クラスメイトたちが絶望の淵に立っている中、あろうことか、美依は笑んだのだ。暗然とした空気にそぐわないはずの笑顔が、どういうわけか美依にはぴったりと相応していた。彼女の本性がようやく垣間見えた気がした。
 美依を引きとめようとしたのは、なにも一緒に過ごしたかったからではない。彼女なら自ら望んで加害者になり得るからだ。凶行を未然に防ぐことが、仮にも1年あまりを親しく過ごしてきた者の責任だと思った。
 そのときは少なからず混乱していたのだろう。だから、正義感なんていう似つかわしくない感情が湧き出てしまった。そんな取ってつけた善意を振りかざしたばっかりに、優先すべき相手を履き違えた。二兎追うものは一兎も得ず、を体現することになったのだった。
 美依を取り逃がしたあと、校門を振り返ると、福谷佳耶(女子14番)久枝布由(女子12番)と共に全力疾走していくのが見えた。すぐに校舎の玄関先まで戻ったが、遼子の次に出発するはずの幼なじみは、すでに消えてしまったあとだった。
 プログラム中に仲間を集めることは考えていない遼子だったが、彼とだけは手を組むつもりでいた。しかし美依にかかずらっている間にすれ違ったらしい。自分より前に出た友人、長谷ナツキ(女子11番)の姿もなかったし、幸か不幸か、遼子はひとりきりで行動するよりほかなかった。
 馬鹿、と胸の内で幼なじみを罵る。ひどく自分に自信のないあの男のことだから、小学校の前に遼子がいないと知るや、見限られたと決め付けて幼なじみ同士での合流は諦めたのだろう。少しでも捜そうという気を起こせばすぐにでも会える場所にいたのに。あの小僧ときたら、昔から人を苛々させることにかけては天才なのだ。
 ――やや上り勾配のコンクリート道に沿って走るにつれ、両脇に広がる林が次第に薄くなってきた。幅が広くなりはじめた道の先、ブロック塀に取り囲まれた高い煙突が見える。地図にはそれが火葬場だと記されており、火葬場が見えてきたということは次期禁止エリアからとうに抜けたはずだった。
 みっともないくらいに乱れた呼吸を正すべく、林へ足を踏み入れてクヌギに手をついた。脳に酸素が送られ、脈拍が静まるのを待つ。そうしているうち、鼓動とは違う音を耳が拾っていることに気づいた。遼子は息を殺し、そっと根元の陰にしゃがみこんだ。
 ダイヤル式電話の発するような、にぎやかなベル音だった。薄暗い雑木林から日の差す火葬場を眺めると、正門を出たすぐそばで公衆電話の黄緑色がよく映えていた。どうやらそれが鳴っているようだ。
 公衆電話へ呼び出しがかかってくること自体に不審な要素はない。公衆電話にも一般の電話と同じように個別の電話番号があるからだ。その番号を知っていれば自由にコールできるし、悪用することだってできる。
 これは罠かもしれない、遼子は直感的に思った。大きな音で生徒たちをおびき寄せ、一網打尽にする、そういった策略をめぐらす者がクラス内にいるのではないか。少なくとも、外部との連絡手段が絶たれているはずのこの戦闘実験で、電話をかけてこられるのは現在島の中にいる人間だけだろう。
 遼子は状況を見極めるため、今しばらくその場から動かないことにした。だが、このように冷静でいられる人間は少ないのかもしれない。現に遼子の目に、餌へふらふらと近づいていく2匹の獲物が入り込んでいた。
 ひとりは、先ほど行き先を指南してやったばかりの鳥居雅治だった。この場所は遼子が教えたのとは全く違う方向に位置するが、さすが方向音痴の名をほしいままにしているだけのことはある。雅治は焼却場の裏手からとろとろとやってくると、角を曲がったところで立ち止まった。
 その視線の先にいるのが、もうひとりの男だ。彼の姿を見た途端、遼子の頭痛はより激しいものになった。
「……あの馬鹿」
 ブロックの囲いの内側に隠れていたのか、坊主頭の少年が正門から現れ、電話に応じようとしていた。雅治に気づいている様子はなく、隙だらけの背を向けている。人目を引く場所へ赴く自覚のない、あまりに無防備な姿だった。柄ではないとは思いつつも、遼子は彼らを諭さずにはいられず、取り急ぎ足を踏み出した。
「はい、チーズ」
 遼子が近寄り始めるより前に、雅治から先ほどと同じセリフが転がり出た。
 見ると、雅治は首から提げたカメラを持ち上げ、遼子にしたことを再現していた。その行為に悪気はなかったのだろうが、坊主頭は当然のごとくシャッターの音に驚く。そして振り向いた拍子に筋肉が引きつったのか、彼はあろうことか、手にしていたボウガンの引き金を引いたのだった。
 ふたりの距離はわずか2メートル。攻撃が充分に命中し得る近さだった。坊主頭は「あっ」と叫んでボウガンを相手から逸らしたが、矢はすでに発射したあとだった。
 赤い矢はカメラのすぐ下、緩やかに開いた雅治の口へ飛び込んだ。門歯を突き破り、3、40センチあるうちの半分が喉の奥へ突き刺さった。その角度だと、切っ先は脳へ到達したのかもしれなかった。
 カメラから吐き出されたばかりのインスタント写真が宙を舞う。雅治は物も言わず後ろへ倒れ、まるで写真に焼き付けられたように動かなくなった。辺りに響くのは電話の音だけになった。
 一足遅く林の淵まで辿りついた遼子の口から、思わず少年の名がこぼれた。
「……仁」
 広瀬仁(男子14番)はボウガンを構えたまま、呆然と遼子を顧みた。

男子11番 鳥居雅治 死亡
【残り21人】