34
 西村美依(女子9番)は相も変わらず、待ちの体制を強いられていた。
 「電話の音が聞こえる」という木下亜央(女子3番)の言葉により一時は事態が転がりだしたように見えたが、どうやら民家の電話機は使用できないようだった。
「あのおばさんの声なんか聞きたくなかったよ。どこからかけても、おばさん、おばさん。なんか、耳から離れない」
 高橋絹代(女子5番)はこれ以上ないほどうなだれていた。彼女たちの話から推測するに、この島にあるすべての電話はプログラム実行部へ繋がる仕組みらしい。つまり、プログラムのプロと一対一で話せるわけだ。美依はぜひともこの機会を利用したかったが、亜央たちから目を離すわけにもいかず、ただ悶々と時を過ごすよりほかなかった。
「電話をかけてきたのもおばさんなのかなあ」
 絹代がため息混じりに言うと、亜央は問い返した。
「なんのため……?」
「うーん。私たちを混乱させるため?」
「……そうなの?」
 そのままふたりは黙りこくってしまった。
 はたして月家具がそこまでするだろうか。美依は絹代の予想に疑問を抱いた。このゲームは名目こそ戦闘実験だが、実質はギャンブルの種として行われているという話だ。一度に億単位の金が動くその賭けにおいて、出走馬はあくまで生徒なのである。そこへ部外者が小細工を仕掛ければ甚だ興ざめだろう。
 しかしそうだとすると、では電話の主は誰なのかということになる。彼女たちが動こうとしないので、美依はいくつかの可能性を頭の中に浮かべ始めた。
 まずひとつめ。やっぱり亜央の幻聴だった、というオチだ。亜央は自信満々に断言しているが、未だに美依と絹代は音を聞いていない。亜央は普段から不思議な発言が目立つ子だったし、そう片づけてしまうのが手っ取り早い。
 一方、あまり正解してほしくないのがふたつめの仮説だった。
 もしかすると、一度は絹代や亜央が考えたとおり、外部からの介入があったのかもしれない。もし、実施会場等の丸秘情報を得、ゲームの鉄壁をかいくぐり、電話回線に潜り込むくらいの技術力を持つ集団、あるいは個人が絡んでいたとしたら――最悪の場合、試合中止という事態にもなりかねない。この国で反政府組織なるものが暗躍しているという噂は聞くし、そうでなくとも政府に反感を持つ人間はいくらでもいる。政府が生み出した害悪の象徴ともいえる68番プログラムを、彼らが潰したがっているとしてもなんら不思議はないのだ。
 ――あ。
 そこまで考えて、美依はふと思い出した。
 胸ポケットを広げ、中のMDを覗き見る。すっかり覚えてしまったその内容を、頭の中で再生する。なにも犯人が外側にいるとは限らないではないか。プログラムを一番中止させたいのは、他ならぬ当事者ではないだろうか?
「あーあ、しょうがないっか」
 静寂が破られたので、美依はそこで意識を表へ引っ張り出した。
「電話のことはもう諦めよ?」
 絹代に声をかけられると、亜央は途端に難しい顔をした。口を引き結んだまま、デイパックからコンパスを取り出す。なにをやりだすのかと問いたそうな絹代をよそに、亜央は民家の玄関先を離れ、北へ延びるあぜ道をとことこ歩き始めた。絹代はただおろおろするしかなかった。
「あ、亜央ちゃん? どうしたの?」
「お家いくの」
「ええっ?」
 いよいよ錯乱したか、と美依は頭を抱えた。
「待って待って、亜央ちゃん。今はまだ帰れないんだって」
 絹代がその小さな手を掴むと、亜央は訴えかけるように振り返った。
「だから、行きたいの。どうしても、ママに伝えたいことがあるの。島の中で一番お家に近いところに行ったら、声、届かない?」
「……えーっと」
 本心では否定したいのだろうが、絹代は腕を組んで考えるふりをしただけだった。その小動物みたいに円らな瞳を前にすれば、美依もきっと二の句が継げなくなるに違いない。相方に振り回されてばかりの絹代が気の毒になってきた。
「言いたいの、ママに。冷蔵庫にあるパンプキンパイ、あげるって。腐っちゃったらパイがかわいそうだって」
「パイ? ほかに気にすることがあるでしょうに……」
 言い終わりかけたところで、絹代はふと視線を遠くへ投げた。
「私が買いだめしといたポテチ、どうなっちゃってるのかなあ」
 亜央への対応にほとほと困り果てていた彼女も、食べ物の話には共感する部分があったらしい。かくいう美依も、山本さんお手製アイスはもうお母さんに食べ尽くされてるんだろうな、と思うと少し憂鬱な気分になった。
 3人分のため息が朝のきらきらした空気に溶け込む。もはや修復不可能だと感じられるほど、ターゲットたちの活動力は萎えきっていた。できるだけはやく気を取り直してもらわないと、こちらにまで塞ぎの虫が飛んできてしまいそうなのだが――。
 こうやって美依がやきもきするのをまるで察したかのように、お辞儀と見紛うくらいに垂れた頭を、亜央は辛うじて持ち上げた。
「また、聞こえるよ……」
「もう電話はいいよ。うんざり」
 絹代の返答は投げやりだ。
「……でも」亜央は小首を傾げた。「かかってきた電話はまだとってないもん。1回とってみたいの」
 元気はなかったが、なかなかに建設的で冷静な意見だ、と美依は感心した。相棒の捨て鉢な態度に危機感を煽られたのかもしれない。ただ美依としては、電話に執着するよりもはやく人捜しを再開してもらいたいのだが。
「ちょっと、とってくる」
 心を決めた彼女に迷いはなかった。軽やかに駆け出した亜央につられ、絹代は「あっ、置いてかないで」とその跡を追った。美依も速やかに辺りを見回したあと、ふたりに続く。
 いくつかの民家を通り過ぎ、畑を通り過ぎ、背の高いススキの群れを通り過ぎた。そうして、緩やかなカーブに差し掛かったころだった。絹代の騒がしい足音とともに、ようやく美依の耳がベルの音を拾いはじめた。いまひとつ半信半疑だったのだが、やはり亜央の証言は間違っていなかったのだ。
「わっ、なに? 見てあれ!」
 絹代の巨体が急停止したため、美依はそれから少し離れた自動販売機の陰で立ち止まった。日が高くなってきたせいか、フルマラソンを完走したかのごとく汗だくになった絹代が、さも自分の手柄であるかのように指を差している。
「びっくり。ドラマみたい! 闇取引だ、闇取引!」
 絹代がはしゃぐのも無理はないと、美依はそれを見て思った。
 住宅に紛れるようにして建っている古びた商店の脇に、緑色の公衆電話が置かれている。鳴り響いているのはどうやらそれらしいのだ。公衆電話はかけることしかできないという固定観念があるだけに、それは奇妙な光景だった。これが夜に起こった出来事なら、怪奇現象かなにかと勘違いしていたかもしれない。
 浮かれ気分の絹代を放って、亜央はさっさと受話器を上げた。
「もしもし、木下亜央です」
 絹代が「おばさん出た?」と横槍を入れる。しばらくの沈黙をはさみ、亜央はふるふると首を振った。
「ねえ、って聞こえて、すぐ切れたの。違う人だったみたい……」
「ほんと? ほんとに? すごい! ちょっと貸して?」
 絹代はほとんど奪うようにして、亜央から受話器を受け取った。亜央が家に連絡したがっていることはすっかり失念してしまったようだ。普段の使用方法と同じく10円玉を入れ、おそらく自宅の番号なのだろう、慣れた手つきでダイヤルボタンを押す。
 しかし、素っ頓狂な悲鳴があがったと同時に、電話はすぐさま切られた。
「こっちからかけたんじゃだめなんだ」絹代は気持ち悪そうに唸った。「お話するのは何回目かしら、ちゃんと数えてますか、だって」
 どうやらまた月家具に繋がったらしい。この公衆電話が例外的に使用できるというわけではなく、電話の主がなんらかの仕掛けを使ったとみるのがやはり妥当な線だろう。
「ほんとに違う人だったの? どんな声だった?」
 よっぽど期待が大きかったのか、絹代は顔を赤くして亜央に詰め寄った。
「とっても聞いたことがある気がするんだけど……」亜央はすまなそうに目を伏せた。「よくわからない。すぐ切れたから」
「ええっ? じゃあ、男だった? 女のひと?」
「……わからない」
「そ、そんな。なら、若かったか年だったかくらいはわかるでしょ?」
「……うーんと……」
 ふたりがこうやって果てしのない押し問答を続けているなか、美依は美依で勝手に真相を導き出そうとしていた。
 そのあやふやな証言をまるきり鵜呑みにするわけではないが、仮に、電話越しの声を亜央が以前にも聞いていたとしよう。亜央に声を覚えてもらっているであろう人物を、美依は少なくとも40人程度知っている。その中に電話の主がいると考えるのは、あまりに極端な想像だろうか。目的がゲームの崩壊であるにせよ、そうでないにせよ、機会を最も与えられているのはむしろこの島にいる人間なのではないだろうか?
 美依にはそれが、このクラスにいる誰かだと思えてしかたなかった。

【残り22人】