33
 待ちぼうけ。
 今の自分の状態を表現するとするなら、それ以上に適切な言葉は見当たらない。
 長谷ナツキ(女子11番)は今から6時間ほど前に湯浅荘吾(男子18番)と同盟を結んだ。荘吾は約束した、必ず帰ってくると。しかし実際には、太陽が昇っても、空が白から青に色を変えても、荘吾はナツキの元に現れなかった。
 彼の身に何かあったのだろうか――最悪な事態が頭をよぎったが、先ほどの放送で荘吾の名前は呼ばれなかった。ナツキが目を覚ましたのは月家具が朝の挨拶をし始めてからだが、寝ぼけて聞き逃したということはないはずだ。昔から寝起きのよさには自信がある。
 ただナツキは、未だに全島放送の信憑性を疑っていた。死亡者リストが書き換えられていくたび、そんな気持ちをいっそう強くしていく。3年3組のような仲良しクラスが殺し合いをするだなんてどうしても考えられないのだ。ナツキと同じバスケットボール部所属の久枝布由(女子12番)福谷佳耶(女子14番)、それに久保寿英(男子6番)が死んだという報せも、だから月家具の冗談だと思った。そう思うことで、彼らの笑顔が血にまみれていく映像を頭から振り払いたかった。
 布由と佳耶と寿英とはまた会えると自分に言い聞かせ、ナツキは強いて思考を戻した。
「道に迷ってるとか、時間間違えてるとか? ……湯浅が? わたしじゃあるまいし」
 もしかして、を次から次に思い浮かべては、ひといきに打ち消す。ナツキの目から見た湯浅荘吾は、端的に言えば“すごいやつ”だ。どこか飄々としていて、手先が器用で、クラスの誰とでも上手く付き合えて、およそ抜け目がない。そんな荘吾が、そのようなつまらないミスを犯すようには思えなかった。
「……まさかわたし、裏切られた?」
 ぽろりとこぼれた自分の言葉に驚き、ナツキはぶんぶんとかぶりを振った。
「ばかばか。そんなわけないじゃん。そうだ、けがだ。けがして動けないんだ。たぶんそうだよ、うん」
 荘吾が傷を負ったとなると、誰かに攻撃を受けたと考えるのが現実的だろう。しかしクラスメイトを疑いたくないナツキは、加害者がいるという可能性を念頭から排除した。たとえば木の根にけつまずいたとか、地面を踏み外して崖から落っこちたとかして、荘吾は事故によって身動きが取れなくなったのだと無理やり結論付けた。
 となると、この場でまんじりとしているままでは仕方がない。ここで仲間を助けに行かなければ女がすたるというものだ。
 板敷で寝そべっている間にすっかり冷えてしまった身体を解きほぐすため、ナツキは急いでストレッチをした。伸びをしながら薄暗いバンガローから飛び出し、しかし慌てて引き返す。万が一荘吾と入れ違いになったときのため、書き置きを残しておいたほうがいいだろうと考えたのだ。幸いペンはいつもどおり胸ポケットに差してあったし、メモ用紙の代わりは、荘吾が部屋中に張ってくれたかまぼこ板製の鳴子でつとまる。
“お昼には帰ってくるから待っててね!”
 入り口から真正面の位置にある1枚にそう書き、ナツキは今度こそ待ち合わせ場所を後にした。

 とは言え、当てがあるわけではなかった。荘吾は行き先を告げなかったから、どの方角へ足を向けていいのかすらわからない。考えても埒が明かないので、ナツキは風の吹く方――北へとさしあたり歩き始めた。
 林を抜け、車2台がやっと通れるほどの車両用道路に出ると、そこには磯の香りが濃く漂っていた。右手に海が広がっている。穏やかな朝の光を受け、冴え冴えと透ける青緑色は憎たらしいほどきれいだったが、もちろんいつまでも見入っている場合ではなかった。
 道路の向こうには、キャンプ場の手入れされた並木とは違う、より荒々しい雑木が群がっている。荘吾が転んでもおかしくない、いかにも足場が悪そうな場所だ。地図によるとすぐ隣で禁止エリアが発動しているらしかったが、気持ちを奮い立たせて雑木林へ突入した。
 空気がおかしい、と思ったのはその直後だった。
 ナラだかブナだかの葉を掻き分けた瞬間、潮風に異様な匂いが割り込んできたのだ。なにか――生臭いような、鉄錆のような匂いが。
 ナツキは頭こそ単純だが、五感は人より鋭いと自負している。なにせ飛び回っている蚊を素手で捕まえられるし、犬笛は聞き取れるし、先だっての調理実習でも肉じゃがに睡眠薬の苦味を感じ取ることができたのだ。だからナツキには、匂いの発生源がどこにあるのか大体の見当がついた。おそらく、ここから50メートルも離れていない。
 最悪の事態が頭に浮かんだが、そこにいるのはけが人だと思うことにした。それが湯浅荘吾なのか、他のクラスメイトなのか、はたまた島に住んでいる動物なのかはわからない。しかし、傷ついている者を助けるのは健康な者の務めだ。ナツキはごくりと生唾を飲んだあと、道なき道を進み始めた。
 きょろきょろしながら小走りしていると、やがて厚く茂っていた木々が途切れ、少しばかり開けた空間が現れた。そこで一番に目に飛び込んできたのは、蝋燭みたいに真っ白な人間の足だった。
「みっけ! おーい!」
 下生えの点在する地面にスカート姿の女の子が倒れていた。白いスニーカーをこちらに、頭を奥に向けてうつ伏せているため、顔が窺い知れない。それが誰なのか判断がつかないまま、彼女の元へ急行した。
「大丈夫? ……あっ」
 さらさらの髪から覗く泣きぼくろが、それを津丸和歌子(女子6番)だと知らせていた。和歌子というと朝の放送で名前を呼ばれたうちのひとりだ。嫌な予感を覚えつつも、ナツキは彼女の丸い頬を軽く叩いた。
 直後、その手触りにおののくことになった。柔らかさのない、買ったばかりの油粘土のような、まったく生気の失われた皮膚だった。――死んでいるのだと直感した。
 ナツキはとっさに飛び退き、着地をしくじって尻餅をついた。ぞっとした。ただ単純に怖かった。秋原先生の時はあまりにも非現実的すぎて実感が沸かなかったが、目の前にある“それ”は理屈抜きに気持ち悪いものだった。気概が急激に萎え、代わりに胸の辺りから吐き気が突き上げてきた。
 匂いの原因は、泣きぼくろの上、こめかみの傷にあるようだった。だいぶ時間が経っているのか、血は黒く固まっている。傷のあたりが少しばかりくぼんでおり、きれいな形をしていた元クラスメイトの頭は左右対称ではなくなっていた。あまりの有様に、ナツキはぎゅっと目を瞑った。
 彼女が死んだということは、月家具が嘘をついているのではないと証明されたも同然だ。布由も佳耶も寿英も、古屋祥子(女子15番)左右田篤彦(男子9番)伊藤ほのか(女子2番)空本比菜子(女子4番)も、みんなみんないなくなってしまったのだ。そしてこれからも、クラスメイトは減っていくに違いない。
「なんで?」
 心の中でつぶやいたつもりだったが、声に出してしまった。
「ひどくない? なんでうちらがこんなことしなきゃいけないの? 意味わかんない」
 一度口にしたが最後、不満は後から後から湧き、あふれた。そのうちに目頭が熱くなってきて、ナツキはとうとうその場に突っ伏して泣き出した。
「湯浅。どこいったの? なんで帰ってこないの?」
「美依。待っててくれなかったのはなんで?」
「遼子。仁。もう会えないのかな?」
「……小田くん。今どうしてるの?」
「寂しい。苦しいよ……」
 それからしばらく、ナツキは地面に疑問を投げかけ続けた。
 そうやって心の中身を吐露したのがよかったのかもしれない。あるいは、これまで抑えていた感情を涙とともに流したからだろうか。気分がいくらかすっきりしたことに気づき、ぴたりと喋るのをやめた。もともとがあっけらかんとした性格である、うじうじと悩むのは性に合わないらしい。
 ゆっくりと顔を上げ、目の前にいる女の子を見据えた。
 たしかに、彼女とはもう話し合うことができないし、挨拶も交わせない。姿だって変わり果てている。だがどう見たって彼女は、出席番号女子6番、津丸和歌子なのだった。それは間違えようのない事実だった。
 その和歌子に対して、自分はついさっき何を思ったのだろう。“それ”だの“元クラスメイト”だのと、生きていないとわかった途端にまるで物扱いしているではないか。自分は知らず知らずのうちに、死んだクラスメイトを仲間から除外してしまっていたのだ。仲間か仲間でないかを区別するから、事がややこしくなっているのではないだろうか?
 和歌子は3年3組の仲間。仲間はずっと一緒にいなきゃいけない。単純なことだった。クラスメイト全員を集めようと湯浅荘吾に提案したのは、ほかならぬ自分自身だ。言い出しっぺが目標を見失っていては、叶うものも叶わないのではなかろうか。
 きつく握りしめた拳で、こつこつと胸を叩いた。それはテストやバスケットボールの試合やなんかでよくやる、ナツキ独自のおまじないだった。心に迷いがあるときにこうすると、眠りかけた元気を呼び覚ませるような気がするのだ。
「和歌子!」
 ナツキは勢いよく頭を下げ、額の前で手を合わせた。
「気持ち悪いとか思っちゃってごめん!」
 言いながら、自分の声に明るさが戻ったことを実感し、満足した。和歌子が死んだことは悲しいが、くよくよと考えたり深刻になったりしてばかりでは彼女も浮かばれないだろう。「ナッちゃんの前ではみんな緊張がほぐれる」と荘吾は言ってくれた、その気軽さを今こそ活かすべきなのだ。
 ひっそりと横たわっている和歌子に寄り、その身体を抱き起こす。これが死後硬直というものだろうか、手足をゆるく曲げた姿勢のまま全身ががちがちに固まっていたので、背負うのは諦めて小脇に抱えることにした。力を失った彼女はとんでもなく重かったが、文字通り“クラス全員”が集合した場面を想像すると、腹の底から力がみなぎってきた。
 願いを必ず実現させるのだと強く決心しながら、ナツキは待ち合わせ場所へ向かい始めた。

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