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32
 隠れよう、と提案したのは藤井雪路(男子15番)だった。だだっ広い場所に居座るのは心許ないからと理由付けすると、小田春生(男子3番)はすんなりと、池をやや遠巻きに囲む雑木林へ移動してくれた。
 ここからだと、アスファルト敷きの並木通りを右手に、火災建物を左手に一望することができる。炎は燃やせるものを燃やし尽くしたからなのか、あるいは春生の消火活動が功を奏したのか、勢いを失っていた。煙の合間から、熱の仕業らしいぐにゃりと曲がった鉄骨が覗く。
 ――やっぱり火の力ってすごいなあ。
 雪路はぼんやりと昔のことを思い出した。あんなものに体を焼かれれば、“あの”母親でもくたばっていただろうか。
「ムラサキ、行け。おいおいなんだよ、そのへっぴり腰は」
 まるきり格闘技観戦をしている観客の乗りで、春生がぶつくさと不平を漏らす。賭けの対象である宮間睦(女子17番)が、対抗する手島嶺沙(女子7番)に圧され続けているのだ。睦は嶺沙の攻撃を避けるばかりで、決して自分から手を出さない。戦意の差は歴然だった。
「お前、なに大人しくしてんの。ケンカ好きなんじゃないの」
 試合を食いつくように眺めたまま、春生が突飛なことを尋ねてきた。雪路は間抜け面を返した。
「え、なんで?」
「歯、ケンカして折れたんじゃないの」
 口元を指差され、ようやく合点がいった。雪路は上の門歯を1本、その隣の側切歯を1本失っているため、ケンカに明け暮れているふうに見えなくもない。しかし雪路は実際のところ、ボクシングやプロレスを見るだけで眩暈がしてきてしまうたちだった。歯が折れたのは左右田篤彦(男子9番)に殴られたからだが、殴り返すほどの意気地さえ雪路は持っていなかった。
「ケンカっていうか、これは自業自得で」雪路は頭を掻いた。「まあ、そんなことはどうでもいいじゃない」
「いや、さっきからちらちら目に入って気になるのね。肉とか噛み切れないだろ。なんで治さなかったの」
「なんていうか、治療費の問題が、ね。それより小田くん、思ったんだけどさ」
 苦い過去をこれ以上掘り返されないために、雪路は話題を変えることにした。春生は気安い調子で「なに」と応じた。
「このままだと手島が勝つのは目に見えてるよ。てことは、小田くんが負けるってことでしょ。それじゃつまんなくない?」
「は。どこが目に見えてんだ。お前んとこの女、さっきから空振ってばっかじゃん」
「でもさ、宮間は戦う気ないみたいだよ。こんなの賭けにならないよ。止めようよ」
 一時は穏便に話し合っていた彼女たちだったが、いくらも経たないうちに諍いを始めてしまった。あの宮間睦と手島嶺沙のこと、出会えばただではすまないと予想してはいたものの、やはりクラスメイトのいがみ合う姿は見るに耐えない。雪路としては、睦と嶺沙、ついでに春生とが手を取り合ってくれればありがたかった。もっとも、そんな場面はとても想像できなかったが。
「俺ね、中途半端なのすげーいやなんだけど……あ、まずい」
 雪路の希望に答えきらないうちに、春生は目を丸めた。雪路はその視線を追い、息を呑んだ。
 睦が朝露を含んだ芝生に足を滑らせ、嶺沙の木槌が大きく振りかぶられていた。武器はそのまま体勢を崩した睦の左肩を打った。甲高い悲鳴が、50メートルは離れているこちらまで届いた。
「宮間! ど、どうしよう、大丈夫かな?」
「完璧脱臼したな。いや、骨折か」
 心配しているのかいないのか、普段と変わらない口調で春生が言う。いたましい光景を目にした上、そういった現実的な想像を聞かされ、雪路まで肩のあたりが苦しくなった。
 睦は膝を折りかけたが、よたよたと立ち直り、池のほうへ駆け出した。睦が嶺沙に背を見せるのはこれがはじめてだ。勝機が見えたと言わんばかりに、嶺沙は落ち着いた歩調でその跡を追った。
「よし、よし、宮間、よく決断した。ていうか最初っから逃げればよかったんだよ」
 小刻みに頷きながらひとりごちていると、春生に額を鋭く小突かれた。
「いった!」
「お前どっちの味方なの」春生は涙顔で頭を抱える雪路に言い聞かせた。「なんてったっけ、そうだ、ミヤマ。ミヤマを応援するのは俺。わかった」
「応援するとかしないとかじゃなくて……」
 雪路が歯向かうのを無視して、春生は木の陰から声を張り上げた。
「ミヤマ! その女ぶっ飛ばせ!」
「ちょ、ちょっと小田くん」
 慌てて春生の口をふさいだが、すでに彼女たちの注意はこちらへ集中した後だった。「誰だ」という、まるで地獄の閻魔様みたいな重々しい声が、芝生を這うように聞こえてくる。嶺沙の迫力を前に、雪路は危うくちびりかけた。
「なんなのお前。止めようって言ったり隠れようって言ったり」
 春生はあくまでマイペースだ。あの殺気立った戦いぶりを散々見ていたはずなのに、恐怖という感情は湧いてこないのだろうか。
「ものにはタイミングってものがあるでしょうが。ああ、終わりだ、ジ・エンドだ」
 雪路の脳裏には、手島嶺沙が自分たちへ襲い掛かってくる映像が鮮明に映し出されていた。しかし怒りの矛先は、つらそうに肩口を押さえている睦に向けられたままだった。
「貴様、仲間がいたのか!」
 嶺沙が武器を構えながら息巻く。おそらく一番驚いているであろう睦は、眼鏡の奥に戸惑いの色を滲ませた。
「I don't understand……」
「最初から私を嵌めるつもりだったのか? 卑劣な!」
「Calm down. どういうことなのかワタクシにもわからないのです。どなたがお声を掛けてくださったのか、確かめに参りましょう」
 睦は無理やり朗らかに振舞うと、嶺沙を背にして進み始めた。
 怪我による痛みのせいで、判断力が鈍っていたのかもしれない。それは雪路の目から見ても明らかに軽率な行動だった。その無防備な後ろ姿を、興奮状態にある嶺沙が見逃すはずもなかった。
「ミヤマ! うしろうしろ!」
 そんな春生の助言も虚しく、木槌は正確に紫色の側頭部を捉えた。睦は左の方へ弾き飛ばされ、半回転しながら倒れた。
「あーあ、しょうがないな」春生が痺れを切らしたように雑木林から身を乗り出す。「立て、立つんだミヤマ!」
 雪路はそれを引き止めることもできず、両手で目を覆っていた。うつ伏せに寝転んでいる睦を指の隙間から見る限り、その首が妙な角度で捻じれているように感じられた。折れた、ということは、死――。
「ミネサさん」
 意外に明瞭な声が睦の口から吐き出された。春生の登場に面食らっていた嶺沙は、我に返ったように視線を落とした。「あ、生きてた」と春生がつぶやいた。
「……やはり、ハルオさんはいました。ワタクシが嘘をつかないこと、おわかりいただけたでしょう。ワタクシは、あなたと、お友達に」
 そこで睦は言葉を止めた。その代わりを引き継ぐように、ぱきっという小気味よい音が辺りに響く。雪路には判断がつかなかった、それが眼鏡の割れた音なのか、それとも頭蓋骨の割れた音なのか。
「うるさい!」
 すでに動かなくなっている睦の頭を、嶺沙はなぜだか苦痛をこらえるような表情で、再び殴りつけた。
「うるさい! うるさい! 貴様の言ったことは嘘だ! 全部嘘だ!」
 まるで餅でもつくかのように、しつこく殴り続けた。木槌が振り下ろされるたび、血の散る量が増した。「スミレの花をimageしたのですよ」という睦ご自慢の髪が、黒い水玉模様のネクタイが、ちかちか光るチェーンピアスが、みるみる赤くまっていった。
 膝をがくがく震わせながら、雪路はなんとか嶺沙を止めようと思い立った。しかし春生に大手を広げて立ちはだかられ、雑木林から出ることができなかった。
「ど、ど、どいてよ、小田くん」
「負けたのは俺だ。お前に罰ゲームをやらせるわけにはいかない」
 春生はあくまでも賭けに執着している。どうやらふざけて言っているのではなかったらしい。
「そっ! そういう場合じゃないでしょ! 宮間助けなきゃ」
「だからー、俺の負けだって言ってんじゃん。もう死んでんだよ」
 宮間睦が息絶えたことはもはや一目瞭然だった。そんなことはわかっている。ただ、クラスメイトがこれ以上傷つけられるのを見ていられないのだ。雪路は急く心を抑えきれず、高大な壁の脇をするりとすり抜けた。
 次の瞬間、春生が雪路とは反対の方向へ飛び退き、男ふたりの元いた場所に木槌が叩き込まれた。雪路たちがひと悶着を起こしている間に、嶺沙が標的を移したのだ。
 嶺沙は血走った目で左右を見回し、あろうことか、ゆっくりと雪路に向き直った。
「相手はおれじゃない、あっち!」
 雪路はすくみ上がり、嶺沙の背後でデイパックを探っている春生を指し示した。しかし強硬な嶺沙が動じることはなく、ついにはこちらへ向かってきた。宮間睦のことなんて構っていられる場合ではない。雪路は逃げ出すよりほかなかった。
 逃げ足の速さには自信があるのだが、相手に怯んでもらわなければ心許なかった。支給武器である小銭を振り返りながら投げつける。嶺沙はそれを、蚊でも払うように跳ね返した。西村美依(女子9番)から盗んだ黄色いエプロンも放ってみた。空中で広がって視界を遮ってくれるだろうと期待したが、それは折りたたまれた形のまま嶺沙の耳を掠めただけだった。雪路はほとほとうろたえて、首を正面に戻した。
 ――火。
 火事の模様が目に飛び込んできた途端、頭の中で過去の記憶が弾けた。それは一瞬のうちに雪路を呑みこみ、支配した。

 満天の星の元、自分の住むアパートが燃えている。家財の焼ける音と、救急車のサイレンと、消防士の怒号と、野次馬の話し声と、妹の嗚咽とで、辺りは気が変になりそうなほど騒々しい。
「お母ちゃんが死んじゃうよう」
 雪路よりひとつ下の妹が、幼い弟に寄りすがって泣いている。火が出る前、眠りこけている母親を置いて自分たち家族は外出したのだった。人ごみの中に母の姿は見えない。年端もいかぬ藤井家の兄弟にも、母が未だ家の中にいるであろうことは容易に想像できる。
 しかし雪路は、妹とはまったく逆の気持ちでそこに立っている。つまり――雪路はほっとしているのだ。あのどうしようもない母親が、やっと死んでくれるのだ、と。
 雪路の母は主婦だったが、主婦らしい行為を全くしなかった。家事や子育てを放棄してパチンコ屋に入り浸り、常に酒と煙草の匂いをぷんぷんさせていた。収入を吸い上げるだけ吸い上げた挙句、気の弱い父親を毎晩ののしり、時には食器やほうきを武器にして暴れた。子供に手を上げることも、少なからずあった。
 雪路には妹の流す涙の意味がわからない。いつも「お母ちゃんなんかどっかにいってほしい」と兄弟に愚痴っていたのに。あの母親がいなくなれば、間違いなく万事上手くいくのに。
 だから雪路は、消防士に火を消さないようにと頼み込んだのだ。精悍な顔を困ったように曇らせ、危ないから下がってなさいと囁いてくる消防士に、雪路は必死になって、やめて、やめてと訴える。
 そんなときだ。

「おい」

 背後から呼びかけられて、雪路は振り向いた。そこにいたのはもちろん手島嶺沙だったが、その威光を放つ姿が、雪路には母親と重なって見えた。
「母ちゃん……」
 あのときの衝撃は、思い出すたびに心臓を鷲掴みにする。驚いたことに、火事に巻き込まれたはずの母が人ごみの中から現れたのだ。母は雪路たちが銭湯へ行っている間に眠りから覚め、パチンコ屋に出かけていたのだという。
 雪路は自分の行為を思い返し、後ろめたさのあまり後退りした。
「逃げるな!」
“逃げるな!”
 手島嶺沙と母親が声を合わせる。嶺沙の影が薄くなり、母の輪郭が鮮明になる。混乱は極みに達し、雪路にはもう記憶と現実の区別がつかなくなっていた。
“ゆーきーみーちー。こりゃどういうことだぁ、え? なんであたしの家が燃えてんだ”
 喉が干物みたいに乾いて、喋ることができなかった。それを反抗と取られたのか、すぐさま母の蹴りが飛んでくる。酔っ払いの千鳥足など高が知れているはずだが、実際に飛んできたのは嶺沙の脚だったため、雪路は地面にひっくり返った。
“まさかお前が火ぃつけたんじゃないだろうなぁ”
 全身を硬直させた雪路に、母は悪意のこもった言葉を投げる。それは雪路を腹立たせるのに充分な効力を持っていたが、8歳のあの日、怒りが体現されることはなかった。
 歯向かったことなどほとんどなかった。火事の原因が母の煙草の消し忘れだったとわかったときも、批判したりしなかった。ほんの半年前、左右田篤彦からもらった歯の治療費を全額横取りされたときも、文句を言う勇気すら湧いてこなかった。雪路にとって、母親という人は地獄の閻魔様より怖い存在だったのだ。
 しかし、今なら勝てる気がした。いや、今でなければ勝てない気がした。
「親に疑われる子供の気持ち、考えてみろってんだ」
“あ?”
 雪路は跳ね起きると、母親の酒焼けした顔に唾を吐きかけた。虚を突かれた母は、信じられないものを見るように目を瞠った。
 そんな情けない表情を見られたことは大きな収穫だったが、もっと困らせなければ気が済みそうになかった。――今度こそ死んでほしい、と思った。
 母親はどういうわけか大きな木槌を持ち、それを頭上に掲げていた。しかし雪路は怖けず、相手の懐に隙を認めた。ポケットからはさみを取り出し(小田春生からこっそり拝借しておいたものだ)、疎ましい女の喉に刃を突き立てた。
 母は満面に驚きの色を浮かべながら、喉のはさみを掴んだ。それを引き抜こうと首を仰け反らせた拍子に、勢い余って後ろざまに倒れた。その口から、ぶくぶくと血の泡が湧き出てきた。
「あ、あれ?」
 雪路はぽかんとして、地面に横たわる母を覗き込んだ。家の中で絶大な権力を持っていた彼女が、まさかこんなにもあっさりと伏してしまうとは思わなかったのだ。
「ね、ねえ、母ちゃん、起きなよ」
 肩を揺さぶったが、反応はなかった。それでも揺さぶり続けていると、母の顔が次第にクラスメイトの顔へと変化していった。なにがなんだかわからなかったものの、それが手島嶺沙だと認識しかけたとき、後ろから父親らしい男の声が聞こえてきた。
「こら、お前! その女と勝負するのは俺だって言ってんのに!」
 ――え? 優しいだけが取り得の父ちゃんがそんな小田くんみたいなこと言うなんて――。
 首を振り向けると同時に、背中に何かがぶつかるような衝撃を覚えた。心臓が一瞬大きく脈打ち、雪路は自らが殺した人物の上へ折り重なって倒れた。あとは何も感じなかった。

 手島嶺沙は喉からはさみを、藤井雪路は背中から柳刃包丁を、それぞれ生やして死んでいた。
 小田春生はわずかに顔をしかめて、雪路から包丁を抜き、もう一度だけ刺した。他人に抜け駆けされたことがやたらと癪に障った。――くっそ、思うようにいかないもんだな。
 はさみと包丁を回収しながら、ふと自分が手持ち無沙汰になっていることに気づく。春生は気持ちを切り替えると、頭の中でこれからの予定を列挙し始めた。やりたいことはまだまだたくさん残っていた。

女子17番 宮間睦           
女子 7番 手島嶺沙        
男子15番 藤井雪路 死亡
【残り22人】