31
 チャイコフスキーの“こんぺい糖の踊り”が聞こえる。
 宮間睦(女子17番)はブレザーの内ポケットに意識を集中させた。そこに入れてある携帯電話が鳴っている。この島にいる限り、どこへコールしてもプログラム担当官に繋がるらしい、睦愛用の携帯電話が着信音を奏でている。
 月家具婦人からのコンタクトだろうか。そう思ったものの、睦が携帯で彼女と言葉を交わしたのはもう半日も前のことで、この期に及んで掛け直される理由は見つからない。とすると、相手として最も考えられる候補は父だ。娘を溺愛している睦の父親が、財力に物を言わせてこのゲームに風穴を開けたのかもしれない。
 すぐにでも電話に出たかったが、いかんせん体を動かすわけにはいかなかった。なぜなら、睦はいま“死んだふり”をしているからだ。すぐそばまで迫ってきている何者か――睦はそれを、先ほど遭遇した小田春生(男子3番)だと仮定している――に、自分はすでに魂の抜け殻だと思わせたいのだ。いくらあの無慈悲な一匹狼だとはいえ、死屍に鞭打つほど落ちぶれてはいない、との考えから起こした行動だった。
 だが非情にも、春生はこちらへ向かってきたのだった。目を閉じているため、彼が近づいてくる過程を確認したわけではないが、右耳の触れているアスファルトから地面を踏みしめる音が聞こえてくる。そのためらいのない足取りから察するに、確実に相手の興味を買ってしまったようだ。
 胸の中で十字を切ると、計ったように靴音が止まった。睦は固唾を呑みたい衝動に駆られながら、すべての生活反応を抑えようと努力した。ここはこのまま死体役に徹し、一刻もはやく執着を解いてもらわなければならない。睦としては、政府からの支給品を提供してでも相手に立ち去ってもらいたかった。そして電話に応えたかった。
 幸いにも、携帯電話は鳴り続けている。これを取り損なえば、今度はいつかかってくるかわからない。母が口癖のように言っていた、電話は10秒以内に取れと。それ以上待たせると相手は遅いと感じる。イメージに傷をつければ成立するものも成立しなくなる。謙虚な気持ちを忘れないように。お父様を御覧なさい、ビジネスで成功した人ほど礼儀正しいのです――。
 春生はこちらの出方を窺っているのか、1メートルほどの距離を保ったまま動かない。着信メロディは一通りの演奏を終え、また頭からリピートし始めていた。
 電話を取るか、取らないか。
 目の前のピンチをやり過ごすか、被るか。
 電話。ピンチ。電話。ピンチ。電話。ピンチ。電話。ピンチ。
 頭の中をぐちゃぐちゃとかき混ぜながらも、睦はようやく決心し、内ポケットへと手を動かしかけた。その途端、鷲掴みにされるような感覚が肩を襲った。
「おい……」
「Don't touch me!」
 反射的に身を翻す。そして次の瞬間、目に飛び込んできた事実に飛び上がるほどの衝撃を受けた。てっきり小田春生だと思っていたその人物が、手島嶺沙(女子7番)のいかつい姿に為り変わっていたからだ。
 ――Jesus. I'm in trouble!
「お前……」嶺沙はいぶかしそうに睦の顔を見、胸元に視線を落とした。「誰からの電話だ」
 パニックに陥りかけていた睦は、我に返って携帯電話を取り出した。しかしタッチの差でメロディは止み、静寂を埋めるのは小鳥のさえずりだけとなった。
「Oh, my」
「誰からだ。連絡を取り合ってるのか?」
 嶺沙は重厚な声で凄み、むんずと睦の胸倉を掴んだ。睦は短く悲鳴を上げた。
「Stop it, please!」
「あ? 質問に答えろ」
 嶺沙は角張った顔全体に不快感を表すと、それが武器なのだろうか、肩に担いだ大きな木槌を揺らした。すぐにでも攻撃態勢に入ろうかという様相だ。
 その剣幕に気圧されながら、睦は携帯電話を操作して不在着信を確認した。父の名前と番号が表示されることを願ったが、履歴に記憶されていたのは“非通知”という文字だけだった。
「非通知? おい、誰なんだこれは」
「I don't know……こちらがお聞きしたいくらいです」
 交信手段を絶たれてしまったこと、加えていま相対しているのが手島嶺沙だということに、睦は深く落胆していた。
 なぜなら、彼女とは水と油の仲だからだ。嶺沙は睦のことを忌み嫌い、睦はそれを感じ取って嶺沙に極力近寄らないようにしている。通常の生活でさえ対立関係にあるのだから、この特殊な環境で顔をあわせれば事態がこじれることは必至だ。睦にとって、小田春生よりも手島嶺沙のほうが悪い相手であることは間違いない。
「お前、どこにも怪我はしてないみたいだな」
 嶺沙が厳粛な眼差しで睦を睨め回す。すこぶる居心地が悪かったが、睦はいっそ開き直ることにして、両腕をくるりと広げた。
「Yes. ご覧のとおりでございます」
「ならなんで倒れてた?」
「Well, 聞いていただけますか? なんとまあ、見つかってしまったからなのです、ハルオ・オダさんに。ワタクシにとってハルオさんは恐ろしい方です。Because, 死んだふりをしていたのです。Do you understand?」
「お粗末な言い訳だな」嶺沙は吐き捨てるように言った。「小田がどこにいる? 私には見えない」
「It's over there」
 睦はグリーンのマニキュアで彩られた手を伸ばし、平らな芝地の先を指し示した。そこに掘られた広い池の傍で、小さな建物が一軒、どういうわけか炎に包まれている。睦はこの煙に誘われてここを訪れたのだが(嶺沙も同じなのかもしれない)、火災は小康状態に移りつつあるようで、黒く焦げた骨組みがところどころで剥き出しになっていた。
「どこだ」
 再び問われ、睦は黄色いフレームの伊達眼鏡越しによくよく火災現場を眺めた。嶺沙の言うとおり、そこにあるはずの人影は忽然と消えていた。
「Strange. たしかに先ほどまで golden hair がキラリキラリと輝いておりましたよ」
「……聞き苦しい」
「嘘などではございません。I'm sure」
「なにをぬけぬけと」嶺沙は睦の襟元を締め上げた。「お前は私を欺こうとしたんだ。小田じゃない。お前が怖いのは、私だ。違うか」
「No, no」
「黙れ!」
 嶺沙は眉を吊り上げると、睦を力いっぱい突き放し、転倒させた。とっさに柔道部仕込みの受身を取ったが、勢い余って後ろ向きにでんぐり返るところだった。
 手島嶺沙は元々、弱きを助け強きを挫くという姉御肌気質の持ち主だ。“素手で人を殴り殺したことがある”という噂が立つほど怪力だが、乱暴に扱う対象は男子、それもある程度体力のある者に限られていて、女子に手を挙げることはまずない。そんな彼女にこういった仕打ちを受ける睦は、女子として、いや、もはや人間として見られていないのだろう。
 嫌われる理由は、わかっている。理解しがたいが、きちんと知っている。世間知らずの睦よりずっと広い視野を持つ友人、森上茉莉(女子18番)によると、手島嶺沙という人は、
「大東亜語を喋れ。お前には愛国心というものがないのか?」
 ナショナリスト――国粋主義者なのだ。
 対する睦は、ピアノや茶道などと同様、幼い頃からお稽古事の一環として英語を習っている。今はまだ準鎖国政策が邪魔をしているが、いつかきっと訪れるであろう国際化社会に適応できるようにと、企業家夫人である母に教え込まれたのだ。もっとも睦は政治や経済のことに興味がなく、英語をファッションと同じように個性を強調する手段のひとつとしか見ていなかったのだが。
「Please don't mistake me……」
 クラスメイトから敵意をあらわにされ、睦は恐れを通り越して泣きたくなった。彼女と2人きりになる機会をようやく得られたのに、初めての対話がこれではあまりに悲しすぎる。
「聞こえなかったか? 米帝語を使うな。それとも、米帝にかぶれすぎて母国語がわからなくなったか」
「But」
「貴様」
 思わず漏れた駄目押しの一言が、ついに相手の怒りを爆発させたようだ。嶺沙は舌打ちすると、睦に向かって木槌を薙ぎ払った。英語は米帝語ではなく世界共通語なのですよ、現に学校でも習っているではないですかと反論したいところだったが、突然の攻撃を避けるのに精一杯だった。
 木槌は睦の紫色の髪をかすめたあと、路肩に植わっている銀杏の木に直撃した。激しい音と共に幹が振動し、広範囲の樹皮が削ぎ取られる。まともに喰らっていればどうなっていたかと、睦は口をぱくぱくさせた。
「暴力はいけません!」
「今さらなにを言ってる? 私は戦闘実験の材料として動いてるだけだ」
 嶺沙はあくまで冷淡な調子で武器を掲げ、次は縦に振り下ろした。睦は慌てて立ち上がり、どうにか飛び退いた。
「Are you serious? 本気でらっしゃいますか?」
「大東亜に貢献できるんだ。国民としてこれ以上の誇りはないじゃないか?」
 嶺沙は真顔そのものだった。
 みたび木槌が持ち上げられるのを認めると、睦は身を低くし、嶺沙の右腕を両手で受け止めた。すかさずその腹を膝で蹴り上げる。不意を突かれた嶺沙は小さくうめき、体をくの字に折り曲げた。睦の支給武器は“殺人術入門”といういかがわしい本だったが、それに記されているテクニックは彼女のような相手にも有効なようだ。
「野蛮なことをして申し訳ありません。けれどどうか、話を聞いてくださいませね」
 左手を嶺沙の背に、右手を木槌の柄に置いたところで動きを止める。入門書にあった“棒状の武器を持った相手への対処”という項目には、続いて“相手の顔を膝で思い切り蹴り、ひるんだすきに武器を奪う”と書いてあったが、やはりそこまでの暴挙には出られなかった。
「本性を現したな」
 嶺沙は腰を折った姿勢のまま、鋭い目線をくれた。
「Umm……」睦は肩をすくめた。「お聞きください。たしかにワタクシは東亜語より英語のほうが慣れております。But……でも、それだけです」
「なにが言いたい?」
「つまり、ワタクシはミネサさんと同じ、人間だということです。使う言葉が違うというだけで、嫌いになったりなられたりするのは、ワタクシは納得がまいりません。ワタクシたち、話せばわかりあえると思われませんか?」
 相手に気持ちが伝わるよう、睦は努めて英語を使わず、真摯に訴えた。嶺沙はそれをあっさり撥ねつけた。
「思わないな。思いたくもない。大体、貴様のようなやつが大東亜の地にはびこっていられること自体、不思議でならないんだ。不愉快だ。まあ、卑小な米帝の犬がいくら束になったところで、崇高な総統閣下や大東亜共和国にとっては痛くも痒くもないだろうがな」
 睦はもはや、やれやれと首を振ることしかできそうになかったが、強いて続けた。
「ミネサさん。あなたは、お国のためならご学友を殺してもいいとお考えなのですか?」
 質問の答えは返ってこなかった。その代わり、凄まじく重いローキックがふくらはぎに命中し、睦はたまらず茶色のアスファルトに転がった。
「Ow! Ah……」
 痛みに悶える睦を、嶺沙は無言で見下ろしていた。視界に涙の膜が張られていても、凍るような視線に全身を突き刺されていることがわかる。睦は二の句を継ぐことができなかった。
「……チビ共が死んでた」
 嶺沙が低くつぶやく。なにを言い出すのかと思う間もなく、言葉は青空を背景に降り続けた。
「畠山と横田と根尾が死んでるのを見た。すぐそこでだ。その様子だとお前、どうせ知らないんだろう」
 彼女が顎をしゃくった方向には、燃焼中の小屋があったはずだ。その向こう側で畠山智宏(男子12番)たちが死んでいるということだろうか。ここからは死角になっているのか、嶺沙の話を確認することはできなかった。
「Really?」
「嘘だと思うなら見にいけ」うっかり発してしまった英語に、嶺沙はもう反応しなかった。「他の場所で左右田が死んでるのも見た。一緒にほのかも死んでた。殺されたんだ。このクラスの誰かに」
 伊藤ほのか(女子2番)は嶺沙の友人であり、第一回の放送で名前を呼ばれたひとりだ。ほのかの名前が出た瞬間、睦は嶺沙の表情に初めて悲しみが滲むのを見た気がした。
「なんでほのかが死ななければならないのかと思った。死体をいくつ見ても腑に落ちなかった。不条理だと、思ってしまった」
 嶺沙が静かに続けるのを、睦は不思議な気持ちで聞いていた。学校行事の際に国歌を歌わないクラスメイトを殴ったり、クラス編成後の自己紹介で将来は専守防衛軍に入隊すると断言したりと、一にも二にも大東亜共和国である彼女から、体制への批判とも取れる発言がこぼれたのだ。国のために友情をかなぐり捨てられるほど、思想が偏向しているわけではないらしい。
「どうやらワタクシは……」
 あなたを誤解していたようです、と続けようとしたが、睦はそこで黙らざるを得なくなった。お気に入りの水玉ネクタイを引っ張られ、上体を無理やりに起こされたのだ。手はすぐに離れたが、急激に絞められた首は筋が違ったように痛んだ。
「プログラムを真っ当にこなしてる奴がいる。なのに私は、無駄な感情に振り回されてる。私はその未熟さを打破しなきゃならない。そう思った」
 嶺沙は敵の鼻先へ顔を寄せ、きわめて淡々と弱味を打ち明ける。まるで、冥土の土産だとでもいうように。至近距離で見る嶺沙に圧倒され、睦は思わず仰け反った。
「逃げるな」
「逃げませんとも。逃げませんので、どうかワタクシを立たせてくださいな。もしくはミネサさんもお座りください。こう目線の高低差があってはお話がしにくいのですよ」
「話? そんなものはいらない。お前は本来、プログラムに参加できない人種なんだ。だが、慈悲深い総統閣下は、お前がこの土俵に上がるのをお認めになった。瑞穂の国の美しき土に還してやろうと言うんだ、ありがたく思え」
 そう話す彼女の顔から、苦虫を噛み潰したような表情が消え、薄笑いが浮かんだ。
 笑みを形作っているはずのその瞳に、睦はたしかな殺意を感じ取った。嶺沙はおそらく――否、間違いなく、睦を殺して殺人に対する耐性をつけようという魂胆なのだ。
 蹴られた脚の痛みも引いた今が、逃げることのできる最後のチャンスかもしれない。それでも睦は、もうしばらくこの場に留まろうと決めた。嶺沙の人間らしい部分を垣間見たことで、彼女のことが好ましく思えてきたのだ。
「ミネサさん、素直におなりください。あなたはホノカさんの死を悲しいと思われたのでしょう? それはとても美しい感情ですよ」
「ああ、ああ」嶺沙はいかにも可笑しそうに肩を揺らした。「わかった。聞こえのいい言葉を並べて、上品ぶって。それがお前のやり方なんだな」
「Oh. お言葉ですが、ミネサさん、外面を飾って心を隠しているのはどちらでしょう? ワタクシは思うのです。先ほどあなたが、大嫌いなはずのワタクシにお声をかけられた理由は、ワタクシが怪我をしていると思われたからではないですか? ワタクシを助けようとされたのでは?」
 睦が両手を差し伸べて語りかけると、嶺沙は苛立たしげに奥歯を噛み締めた。
「ふざけたことを。電話を取ろうとしただけだ。言っとくが、懐柔しようったって私には通用しない。自分が助かりたいって考えが見え見えだしな。さすが、非国民は姑息だ」
「Never! そういったことは考えておりません。ワタクシは……」
「もういい。喋るな。大人しく死ね」
 嶺沙はきっぱりと言い放ち、武器を構えた。しかし睦は動じず、今度は自らの意思で嶺沙と対面した。そして告げた。
「I just want to be friends with you」
 ――ワタクシはただ、あなたとお友達になりたいのです。
 しばらくの間、ふたりは互いを凝視しあった。張り詰めた空気を破るように、小鳥の群れが一斉に羽ばたいた。

【残り25人】