30
 家が燃えていた。
 木造モルタル2階建て、築40年のボロアパートだ。家族5人で暮らすには窮屈で、何度も引っ越したいと思ったものだが、やはり愛着はあった。生まれたときから住んでいた家なのだ。
 父親と兄弟とで銭湯に出かけていた間に起こった火災だった。2階にはあまり火の手が及んでいなかったが、1階の真ん中、自分の部屋は丸焼けだ。
 大勢の野次馬でごった返すなか、近所のおばさんが自分たちの姿を認めて問い掛けてきた。
「あんたのところのお母ちゃん、もしかしてまだ中なの?」
 そのとおりだった。母親はあの部屋で寝ているはずだった。
 家の前では消防隊員たちが鮮やかな連携プレーで放水している。その銀色の防火服と、夜空の星と、ガラス窓の向こうでめらめらしている炎とをぐるぐる眺めているうちに、恐怖感が足元から這い上がってきた。
 気づいたときには駆け出していた。父親とおばさんの制止を振り切り、消防隊員にしがみついた。そして懇願した。

「やめて!」

 耳に声が届いた途端、藤井雪路(男子15番)は我に返った。
 自分の置かれている状況を順番に思い出す。今は戦闘実験第68番プログラムの真っ最中だ。そしてここは場所にしてD=9エリアの池近く。あの小学校を出発したあと、屋外を大した考えもなくうろついていたところ、建物が燃えているのを発見し、昔の体験と重ねてしまった。錯乱して、なにかの容器を使って火に水をかけていた人物を取り押さえた――。
 腕の中にいる人物を、雪路はこわごわ確認した。瞬間、やばい、と思った。なぜならそれは、あの小田春生(男子3番)だったのだから。
 ――やっちゃった。おれ死んだね。はい決定。
 ――さよなら我が友、左右田に財官(左右田はもう死んじゃったけど)。
 ――妹、月見。弟、花丸。強くなるんだよ。権力に屈するんじゃないよ。あ、難しい言葉つかっちゃったな、意味はおれもよくわかんないから聞かないでね。
 せめて安らかに眠れるよう、雪路はまぶたを閉じ、胸の前で手を組んだ。しかし降ってきた言葉は意に反したものだった。
「あー、よかった。これでやっとバケツリレーができる」
 春生はそう言うと、雪路の肩をぽんと叩いた。
「へっ?」
 自分みたいな末端人種なんかに作業の邪魔をされたのに、その口調に憤慨の色は感じられない。雪路はぽかんとして、目の前にいる不良を見た。
 春生の両手には底の深いクーラーボックスが抱えられていた。中には水が張られていたらしく、雪路が組み付いた衝撃でその大半が春生に降りかかったようだった。カッターシャツがびしょ濡れだ。
「ああっ、ごめん! はやく着替えなきゃ。風邪ひくよね!」
 雪路が慌てふためくと、春生は落ち着いた調子で首を振った。
「いや、火の近くにいればすぐ乾くだろ。べつにお前が謝らなくてもいいよ」
 その顔は美術室にある石膏像みたいに無表情であるのに対し、言葉は雪路の気遣いをねぎらっているようだった。どうも変だ。なんだか矛盾している。そもそもこんなに気さくに喋れるのなら、なぜ学校では寡黙で通していたのだろう?
「ていうかお前、頭から血出てるよ」
 春生はさらに雪路の身を案じるようなセリフを吐く。雪路は不審がりながらも、質問に答えた。
「あ、これはおれのじゃなくて、秋原先生」
 あれはルール説明のときだ。兵士によってはねられた秋原義昌先生の首が、偶然にも雪路の額へ直撃したのだった。そのとき付着した血はすぐさま手で拭ったのだが、どうやら取り残しがあったらしい。ぶつかった部分はたんこぶになっており、いまでもずきずきと痛んだ。もともと不運の星の元に生まれた身だとは思っていたが――まったく、おれって本当に笑えちゃうほどついてない。
 憂鬱な顔をしている雪路などお構いなしに、春生は気軽な調子で「ふうん」と鼻を鳴らした。そして唐突にクーラーボックスを突き出した。
「俺は火消し係、お前は水汲み係な」
 なにがなんだかよくわからなかった。わからないまま、とりあえず話を合わせる。
「中に誰かいるの?」
「わかんない。俺が来たときにはもう大火事でさ。いるかもね」
「おれがこれに汲めばいいの? 池の水?」
「うん。早く」
 不良の小田春生が急かしているので、消火の意図も判然としないまま、雪路は与えられた任務を遂行することにした。
 燃焼中の建物が建っているのはだだっ広い池のほとりだ。その池を囲む腰ほどの柵を乗り越え、ストラップを持ったままクーラーボックスを水面に投げ、手繰り寄せる。満杯の水を渡すと、春生は「よしきた」と声を上げ、振り向きざまに炎へ水を蒔いた。再び水汲み係に容器を差し出す。
「ねえ、ちょっと思ったんだけどさ」
 雪路はそれを受け取らないまま腕組みした。春生がきょとんとする。
「バケツが一個じゃ、ひとりでやってるのと変わらなくない? ふつう、ひとつのバケツで水をかけてる間に、他のバケツに水を汲んで待機してるもんだと思うけど。時間短縮できなきゃ、リレーの意味ないよ」
 進言し終わったあとで、三たび無礼を働いてしまったことに気づいた。言動を否定するなどということは、権力者に対する一番の禁忌だ。仏の顔もなんとやら、今度こそ殴る蹴るの暴行を受け、池に沈められるに違いない。
 なんとか事態を打開する方法がないものかと、スラックスのポケットに手を入れる。だが中には支給武器である数枚の小銭があるばかりだ。――だめだ、お金なんか投げつけても火に油を注ぐだけだし、なにより罰が当たりそうだ。終わった。
 しかしまたもや、雪路の予想は覆されることになった。
「はあ。なるほど。言えてるな」春生はあっさりと雪路の意見をのんだ。「お前持ってないの、もう一個、水が汲めそうなもの」
「も、持ってないよ」
「そうか。そりゃ残念」
 雪路は戸惑ってしまった。凶悪な不良少年である小田春生が、これほどまでに温順な受け答えをする人物だったとは。今まで近寄ることも憚られるほど恐れていただけに、妙な気分だった。
「ところで、なんで火ぃ消すのやめてほしかったの」
 春生は地面にクーラーボックスを置き、その上に腰掛けた。消火活動のことはいったん置いておいて、雪路の行動の意味を正すことにしたらしい。
 雪路はぎくりとした。動機は堂々と公言できる代物ではない。上手いことを言って逃れたかったが、しかし壁や屋根のほとんどが焼け落ちている建物に視線をやったところで、いい弁は浮かばなかった。
「ん、まあ……なんていうか、昔のトラウマで」
「トラウマ」
 春生はカウンセラーのように深くうなずき、続きを促した。雪路はやむなく腰をおろし、洗いざらい話すことにした。
「昔、8歳のとき、家が火事になったんだ。おれと父ちゃんと妹と弟は出かけてて無傷だったんだけど」
「母ちゃんは。そのとき死んだのか」
 春生がすぐさま反応する。雪路は苦笑いした。
「ううん、今も生きてるよ。早まらないでよ」
「ああ、なんだ。お前も母親がいないのかと思った」
「え?」
 その言葉はあまりにさらっとこぼれた。あやうく聞き流すところだったが、雪路はふと尋ね返した。
「お前もってことは、小田くん、母ちゃんいないの?」
「うん。俺が産まれてすぐに死んだ」
 春生は淡白に答えた。
 クラスメイトの家族構成を全員分把握しているわけではないが、初耳だった。雪路はすぐさま、話を聞いてもらう側から聞く側に気持ちを切り替えた。非行少年はすさんだ家庭環境で育ったものと相場が決まっている。雪路自身も幸せな半生を送っていたとはいえないため、いやに親近感を覚えた。
「だからグレちゃったんだ」
 雪路が心から同情すると、春生は首を傾げた。
「俺はグレてるのか」
 思いがけず尋ね返され、困惑した。“グレる”は死語だったのかと思い、言い換えてみる。
「不良なんだよね、小田くん」
「俺は不良なのか」
 まるで自分の肩書きを知らないかのような物言いだ。
「じゃあ、金髪にしてるのはなんでなの?」
「あー、これか。ちょい見てみ」
 春生はひらひらと手招きし、自らのつむじを指差した。誘われるままに春生の頭頂部を覗き込み、雪路は目を見張った。
 1センチほど新しく伸びた髪の根元に、ちらほらと白いものが混じっていた。ロマンスグレーというほどではないものの、中学生の頭だとはとても思えなかった。見てはいけないようなものを見た気がした。
「母さんが白髪多かったらしくてさ、中1くらいから俺も増えてきちゃったの。で、金髪にしたら目立たないだろって思ったのよ」
 春生は平然と語る。雪路は聞きとがめた。
「なら、なんでピアス開けてるの?」
「金髪なのにピアスつけてなかったら恰好つかないじゃん」
 身なりに疎い雪路にはよくわからない美的感覚だったが、耳や下あごにつけられたピアスは、はじめに金髪あってこそのものだったわけだ。体制に反抗しようとか、悪ぶりたいからとかいう理由でこういう外見をしているのではないらしい。
「それじゃあ、誰かを殴ったこと、ある?」
「は。ないよ」
「バイクで暴走したことは?」
「ない。免許取れるの16歳からだし」
「万引きとか恐喝とか」
「ないって。犯罪じゃん。なんでそんな話になるわけ」
 ――決まった。この人不良じゃない。
 雪路はそう確信した。それどころか、自分よりもずっと優等生ではないか。ひとりで数十人の暴走族を伸したとか、暴力団組長の愛人と恋人同士だとかいう武勇伝が囁かれてはいるが、考えてみれば、小田春生が非行に走っているところを実際に見たことはない。風貌だけで噂が膨らんでしまったようだ。
「なあんだ。だったらむしろ、おれのほうが不良だね。万引きなんか日常茶飯事だもん」
 相手が乱暴者でないとわかったことで、雪路は調子づいていた。
「お前、そんなこと人に話していいの。補導されるよ」
「平気だよ、証拠は残してないから。おれ、スリとかすごいうまいよ」
 これは大言ではなかった。雪路は物心ついたときから、空腹になるとスーパーやコンビニで食べ物をくすねるのが癖になっていた。熟練したしなやかな手業と、元来の存在感のなさが功を奏し、ここ数年は誰にも勘付かれたことがない。
 現にこのゲームが始まって以降も、食糧や武器を手に入れるためにクラスメイトの荷物を掠めさせてもらった。最大の収穫は、堀江鈴奈(女子16番)(クラスで唯一の、少し風変わりなカップルの片割れ)からいただいた板チョコと飴玉だ。その他ももったいないので捨ててはいないが、エプロン、ペンケース、人形用の服、ハンドタオル、生徒手帳など、とても役立ちそうにないものばかりだった。
「俺からもなんか盗ったの」
「いいや、小田くんからはまだ」
「そうか。気ぃつけとこう」
 春生はつぶやくと、足元に置かれていたデイパックを抱きかかえた。その様子を眺めながらいつ掏ってやろうかと画策しはじめたとき、不意に春生が雪路の背後を指差した。
「なんだあれ」
 雪路は眉根を寄せ、春生の視線を辿った。
 芝生の広場を隔てた向こう側、銀杏並木で飾られた茶色いアスファルト道に、こちらを向いているクラスメイトの姿があった。木の幹に半身が隠れてはいるが、その奇抜な髪の色を見れば一目で正体がわかる。宮間睦(女子17番)だ。
「うわー、外で見ると一段とまぶしいな、ムラサキって」
 金髪の小田春生もさすがに唖然とした様子だ。
「おれらのこと見てる?」
 雪路が言うと同時に、春生が気安く手を掲げる。すると睦は驚いたように跳ね上がり、その場へ倒れ込んだ。
「どうしたどうした」
「ああ、小田くん、だめだよ。不良にいきなり挨拶されたからびっくりしたんだよ」
「だから俺は不良じゃないって」
 気絶でもしたのかと思い、雪路は睦の様子を伺うために腰を浮かせた。しかしブレザーのすそを引っ張られ、止まらざるを得なくなった。
「なに?」
「また誰かきた」
 春生が次は自らの後方を指し示す。その言葉どおり、炎に作り出された熱気の中で、人影がもやもや揺れていた。髪は短く、服装はミニスカート、女子にしてはがっしりとした体つき。おそらく手島嶺沙(女子7番)だろう。
 嶺沙は並木道を威厳正しく歩いていた。雪路たちや宮間睦に気づいている様子はない。そのまま道を沿って行くと、睦と鉢合わせすることになる。
「あいたたた。手島か。まずいぞありゃ」雪路は額に手のひらを当てた。「なにもこんなときにあのふたりを会わせなくても」
「仲悪いの」
 宮間睦と手島嶺沙がお互いを敬遠していることはクラスの誰もが知っているはずだが、春生は人間関係に疎いらしい。雪路ははらはらしながら説明した。
「仲悪いっていうか、関わらないようにしてるっていうか。絶対的に合わないんだよ、あのふたり」
「ふーん」
 こうしている間にも、ふたりの距離は着々と縮まっている。どうにかして嶺沙を軌道修正させなければ、血を見ることになりかねない。――でもなあ、あの人、はっきり言って男より強いからな。おれなんかが止めてもねじ伏せられるのがオチだよなあ。
 雪路がうだうだと身を乗り出したり引っ込めたりしているところへ、春生の提案が割り込んできた。
「どっちが勝つか賭けないか」
「え?」
 意味がよくわからなかった。脳にゆっくりと言葉の響きを染み渡らせたあと、仰天する。なんとこの男は、クラスメイトを賭け事の種に仕立てるつもりなのだ。雪路は驚くやら呆れるやらで目の回る思いがした。
「不良でもないのになんてこと考えつくんだよ。賭けなんて馬鹿げてるよ。ふたりが戦うはずないよ」
「え、変なやつだな。絶対的に合わないって言ったのお前じゃん」
「まあ、そうだけど、でも」
「わかった。戦わないほうに賭けるんだな」
 春生がさっさと進行するのを、雪路は慌てて遮った。自分の意思を勝手に解釈されては面白くない。
「ちょちょ、ちょい待って。どっちが勝つかっていったら手島に決まってるよ」
「テシマ、だな。じゃあ俺はムラサキにする」春生は雪路の鼻先に人差し指を突きつけた。「負けたら罰ゲームな。向こうのふたりの勝ったほうと決闘。どうだ」
 相変わらず感情を形作らない瞳に、きらきらと輝きが走った。この様子からすると、ことを完全に面白がっているのだろう。罰ゲームだなんてもちろん冗談に違いないが、たちが悪いにもほどがある。
「おれ、手島の注意そらしてくる」
 雪路は憤然と春生の手を払いのけた――つもりだった。しかし相手はびくともせず、逆に腕をからめ捕られた。
「お前、ほんとに変なやつね。スリはいいけど人殺しはだめってか」
 力を込めるが、春生に握られた手はまったく動かすことができない。雪路は背筋に冷気を感じながらも反論した。
「あたりまえだよ。小田くんだって変じゃないか。万引きは犯罪だって言って、殺し合いは見過ごすの?」
「それはお前、今はプログラムだから。ここではあらゆる犯罪行為が合法なのよ」
 すでに春生の目からは光が消えていた。
 雪路は息を呑んだ。肝心な問題をすっかり失念していたことに、今さらながら思い至った。不良でないことがわかったからって、性格の真面目さを肌で感じたからって、“小田春生が危険人物でない”という証明はなにひとつ得られていないのだ。逆らえば今度こそ命はない、と思った。
 ――我が妹に弟。ごめん、前言撤回するよ。やっぱり権力には屈したほうがいい。どんなに腹が立っても、長いものに巻かれるのが一番なんだ。自分の身を守るためには。
「お、そろそろだな」
 春生は芝生の上であぐらをかくと、クーラーボックスに肘をつき、試合見物の態勢を整えた。雪路は観念し、しおしおとその隣に正座した。
 いよいよ、手島嶺沙と宮間睦が接近しようとしていた。

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