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27
「死んだ?」
 翼の呼吸が完全に止まったころ、斜め上から声が聞こえてきた。
 根尾倫香の声だった。静かで硬質でうつろで、いつもとはまるで違う調子だが、たしかに倫香の声だった。智宏はそちらを見上げようとし、すぐにあきらめた。全身がコンクリート漬けされたように重く、首を回すことさえできなかったのだ。
 炎のオレンジ色と明け方の白い空気が満たす視界で、芝生に落ちた倫香の影はひときわ黒い。影は不安定に揺らめきながら呟いた。
「あたしが殺した?」
「……違う」
 智宏は弱り果てていたが、喋るだけの余力はどうにか残っているようだった。
「……見てただろう。俺が殺したんだ」
「あたしが殺した?」
「俺だよ」
「あたしが殺した?」
「倫香じゃない」
「あたしが殺した?」
「誤解だ」
 そうプログラムされたおもちゃのように、倫香は同じフレーズを繰り返し、智宏は問いを否定し続ける。ずいぶんと長く掛け合った後、唐突に倫香の台詞が変わった。
「だってそれ、あたしのよ」
 智宏はそこではじめて振り向いた。倫香は硬い表情で、翼の胸に突き立てられた装飾短剣を指差していた。
「違う……」
 倫香がふらふらと智宏の横に立ち、装飾短剣を一気に引き抜く。傷口から申し訳程度に血が飛び、倫香のローファーを汚した。
「あたしのだもん。あたしが殺したのよ!」
 空虚から一転、恐慌が彼女を取り巻いた。倫香は喚いたかと思うと、次の瞬間には駆け出していた。
「倫香……」
 すぐさまそのあとを追おうとしたが、腰が抜けて立ち上がれなかった。みるみる小さくなっていく倫香の背中を目で捉えながら、智宏はひたすらに呼びかけた。
「倫香っ……待ってくれ!」
 それでも倫香は聞く耳を持たなかった。小屋の向こうへ回り込んだその姿が炎の幕に隠される。地面に手を突き力を込めるが、焦れば焦るほど足が硬直するばかりだ。自分のふがいなさに吐き気がした。
「誰か! 倫香を止めてくれ!」
 小屋のそばにいたはずの駒澤岸郎が見当たらない。頼みの綱を失った智宏は、もう天に祈るよりほかなかった。信心なんてものは持ち合わせていないが、それでも朝日の黄金色に染まった空を仰いだ。
「後生だよ……」
「これでいいの」
 まったく聞き慣れない声が耳に届いた。智宏はゆっくりと半身をひねり、そして尻餅をついた。
 願いはあっさりと叶えられていた。小屋の隣にある池よりすぐ手前、倫香が立っていた。ただし、背後に小田春生(男子3番)というおまけつきで。
「ノリカ、って、この女のこと」
 不良の小田春生が、その大きな手で倫香の首根っこを掴んでいた。倫香はまるでお面をかぶったみたいに、引きつった顔のまま固まっている。クラス一大柄な春生とクラス一小柄な倫香が並んでいる光景はいささか滑稽で、翼なら「身長差ありすぎだよ」などとけらけら笑いそうなところだが――。
 智宏の心拍数は急激に上昇した。
「小田……!」
 思い出していた。小屋から火が出る前、青木洸輔に聞かされた小田春生の話を。もうじき禁止エリアに入ろうかという体育館に、“たぶん、俺を閉じ込めようとしてたんだ”。そして自分はこう返したはずだ、“小田は要注意ってことだな”――。
 その要注意人物に、最も守るべき女の子が囚われている。言わずもがな由々しき事態だ。
「……頼む。倫香を放してやってくれないか」
 今すぐ倫香の傍に行ってやりたかったが、危機的状況を前にしてますます足はすくむばかりだった。小田春生は表情をぴくりとも動かさないまま、抑揚のない、明朗さを欠いた口調で言った。
「そこのちっちゃいやつ、死んでんの」
 ここにいるのは“ちっちゃいやつ”ばかりだったが、春生はもちろん、智宏の後ろで血にまみれている翼のことを差しているのだろう。死人を目にしてなおこの落ち着きよう。普通の神経ではない。
 智宏は汗のにじむ手を握り、相手をじっと観察した。
 無色に近い髪の毛が熱風に乗って奇妙に舞い、耳のピアスがぎらぎらと目を射る。青木洸輔の証言、それに“ワル”というレッテルが作り上げる先入観かもしれないが、小田春生から醸し出される昏く不気味な雰囲気を、智宏は肌でひしひしと感じていた。
 しかし、春生が攻撃を仕掛けてこないのもまた事実だ。右肩にデイパック、左肩からはなにやら幅広のストラップが袈裟懸けされている(これが武器だろうか?)のみで、両手は空だ。もしかすると、危害を加えようというつもりはないのかもしれない。もっと言えば、親切心で倫香を連れてきてくれたと考えられなくもない。
 どうしようもなく唇が震えたが、相手の機嫌を損ねないために、智宏は下手に徹することにした。
「れ、礼を言うよ……ありがとう。倫香を止めてくれて」
 すると春生は、丸い瞳をぎょろりと動かし、炎に包まれた釣堀小屋を見た。
「煙が見えたから来てみたんだけどな、いやー、見事な燃えっぷりだな。俺さ、前からやってみたかったのよねー、なんていうの、あれ、あーそうそう、消火活動ってやつ」
「消火活動……」
「うん。バケツリレーやるのな。あれって憧れじゃん。お前ちょうど火ぃ消したそうな恰好してるしさ、ちょっと手伝ってくれない」
 智宏の上半身裸という身なりは、なるほど血気盛んに見える。だがこんなときにバケツリレーをやろうなどという発想が浮かぶなんて、やはり精神状態を疑う必要がありそうだ。
「でも、バケツなんてどこに……」
 話を合わせながら、視線は倫香に向けていた。彼女の目は踊り、腕はわななき、呼吸はすこぶる荒い。今にも叫びだしてしまいそうだ。
「あー、安心しろ。バケツみたいなもんならある」
 春生はひらひらと手を振って、幅広のストラップを肩から外した。そうすることにより、これまでデイパックに隠れていたストラップの先があらわになった。
 ――はて。
 底の深い、プラスチックの箱だった。それは智宏が半日前に捨てたクーラーボックスとよく似ていた。
「あ、これってあれみたいだな。テレビでよくやってるやつ」
 智宏が不審がっていると、春生が何度か小さくうなずき、クーラーボックスから何かを取り出した。
 春生の動作はあまりに素早かった。突然のことに脳がついていけず、それが恐ろしく長い包丁だと気付くのに正味5秒ほどかかった。
 春生はこともあろうに、その包丁を倫香の首元――あの首輪の上あたりに押し当てたのだ。
「おいっ、なにを……」
「動くな!」
 春生が鋭く恫喝する。智宏は血の気の引く音を聞いた。
「武器を捨てろ。女の命が惜しければ」
「おい、冗談だろう」
 ――ああ、そんなことをしたら倫香が――。
「聞こえなかったかい、色男さんよ。まあ、女が死んでもいいってんなら何も言わねえけどな」
 相変わらず感情は込もらないものの、やけに芝居がかった口調だ。おそらくは消火活動と同じく、ベタな刑事ドラマで見るような“人質を取った犯人役”をやってみたかった、そういう軽い気持ちから起こした行動なのだろう。ただ、巻き込まれた方はたまったものじゃなかった。
「悪いが、武器は手元にない。捨てたんだ」
 冷や汗か、それとも炎の熱によって排出させられたのか、全身がわけもわからないくらい汗に濡れた。
「嘘だ。てめえ、どこまで往生際がわるいんだ、え」
 春生はすっかりチンピラになりきっている。
「もしやそのクーラーボックス、北の海岸で拾ったんじゃないのか? それが俺の武器だ」
 智宏はなるたけ冷静を装った。
「は。これが武器。笑わせんじゃねえよ」
「本当だ。それにフグが入ってたんだ」
「フグ……」
 春生は何かを思い出すように上を向いた。その拍子に、包丁が倫香の首をほんの少し滑った。絶叫がこだまする。
「倫香!」
 ついに倫香の恐怖メーターが振り切れた。春生は不思議そうに手の内の人質を眺めるばかりで、凶器を離す気配はない。未だ使い物にならない足を一発殴りながら、智宏は懸命に倫香のヒステリーを静めようとした。
「倫香! 倫香。落ち着け。大丈夫だからじっとしてろ!」
 すると倫香はふいに正気の顔に戻り、こちらへ両手を突き出した。
「智宏助けて!」
 身を乗り出したのがまずかった。倫香を脅かしていた刃は、いとも簡単に柔らかな喉を切り裂いた。傷は頚動脈にまで達し、すさまじい量の鮮血を迸らせた。彼女は超音波のように甲高い悲鳴を上げ、春生に寄りかかりながらだんだんに崩れ落ちた。
 あっという間の出来事だった。
 智宏は目と口をぽかんと開け、倫香が痙攣するのを見ていた。その動きは次第に小さくなり、間隔が広くなり、ほどなくして止まった。静寂が戻る。
「…………」
 無、とは、こういうことをいうのだろうか。目の前にあるはずの景色や、温度や、自分がここにいるという感覚――まわりを取り巻くすべてのものが、しばし智宏には感じられなかった。ただひとつ、倫香が叫んだ最期の言葉だけが、頭の中をてんやわんやに往復し、質量をもって埋め尽くしていく。
「智宏助けて」
 あの気が強い倫香が、あの自尊心の塊みたいな倫香が、自分に助けを求めたのだ。あの、倫香が――。
「あーあ、冗談だったのに」
 春生は口に入った血と一緒に一言吐いた。
 “人の洞察力は確かにその怒りを遅くする。違犯をゆるすのはその人の美しさである”――すなわち、他人に気分を害されてもすぐにかっとなってはいけない、相手の気持ちを理解しようと努めよというのが祖父の教えだが、今回ばかりは実行できそうになかった。智宏はサッカー部で鍛えたばねを活かし、倫香の体液に染まった相手の懐へ突撃した。
 この奇襲にはさすがの小田春生も驚いたようだが、すんでのところでかわされてしまった。
「あっれ」春生が黒目がちの目を見開く。「やっぱ武器持ってんじゃんよ」
 智宏は両手のひらに装着した金属の鉤爪――異国の暗器“バグ・ナク”を続けざまに振り下ろした。これは翼に支給された武器だった。春生に向かう直前に翼の手から剥ぎ取ったのだ。
 左手に忍んだ3本の爪が春生の鎖骨に引っかかる。とっさに後退した春生のなめらかな皮膚を、爪は少しばかり抉った。
「なー、そんなに怒んなって」
 春生が戸惑うように傷口を押さえたが、智宏の怒りは収まるどころかより熱を帯びた。次は首を狙う。倫香にやったことをそっくりそのまま仕返してやる。倫香と同じ苦しみを味わわせてやる!
 智宏は高く跳躍し、重く分厚い靴底で春生の胸板にドロップキックを食らわせた。そのままマウントポジションに持ち込めれば最高だったのだが、やはり体格差が物を言うのか、春生はもうじき倒れようかというところで踏みとどまった。半回転しながら着地した智宏は、すぐまた跳んだ。相手の胴を両足で抱きしめ、左手で金髪を鷲掴みにし、右手で喉仏を切り裂こうとする。いかんせん切っ先は首輪に撥ね返される。
「髪はやめよーよ、はげるじゃん」
 もちろん智宏は聞く耳を持たなかったが、春生は本気で髪に触られるのが嫌らしく、そこではじめて反撃に出た。左手首を締め上げられ、思わず指を開く。とんでもない握力だ。
 春生はもう片方の手を智宏の股の間に差し込み(包丁を持っているほうの手だ、危ないじゃないか!)、その小さな体を力任せに放り投げた。
 そうして智宏が背中から着地したのは、倫香の棒みたいに細い足の上だった。ごりっという不可解な感触が素肌に伝わる。
「すまん倫香!」
 すぐさま倫香の上から飛びのくと、まっすぐ整っていたはずの両足は膝からあらぬ方向に曲がっていた。その見るも無残な姿を目の当たりにした瞬間、ほんのわずかに残っていたクラスメイトへの慈悲が跡形もなく消し飛んだ。
「くそ、くそ! どこまで倫香を痛めつければ気が済むんだっ!」
 愛する倫香に握られた彼女の愛器を掴み取る。両手で構え、振り向きざまに相手へと薙ぎ払った。
 しかし装飾短剣は、振り切られる前にその動きを止めた。春生がクーラーボックスを盾にし、智宏の腕を弾いたのだ。攻撃の勢いと盾の硬度が生んだ衝撃に耐え切れず、智宏は武器を取り落とした。
 とっさに拾おうとしたが、春生のほうが一足速かった。敵の手中に納まった装飾短剣は、槍投げの要領で釣堀小屋へと投擲された。短剣ははでやかな光の尾をひかせながら、炎に飲み込まれた。
 春生はふてぶてしく肩をすくめた。
「武器。2個も持つなんて卑怯でしょ」
 その言葉を右から左へ通過させながら、智宏は春生の脛に掴みかかった。今度は転ばせることができた。間髪を容れず膝を引っ掻く。強く。太ももを、ふくらはぎを引っ掻く。深く。アキレス腱を――。
「痛ってーなあ!」
 敵の声音が少しだけ高くなったと思うと、次の瞬間、背中の中央に灼けた衝撃が駆け抜けた。
「う、あっ……」
 ゆるゆると後ろに首を回す。自分の背からにょっきりと、人の手に馴染むよう加工されたプラスチック製の柄が生えていた。胸元に目を移すと、ちょうど鳩尾のあたりに鋭い突起ができあがっていた。
「あー。あーもう。刺しちゃった。困った困った」
 小田春生がぼやく。怖気づいて逃げたのだろうか? 声がやたら遠い。
 胸に激しいむかつきを覚え、ありったけ嘔吐する。吐瀉物は真っ赤だった。その真っ赤の中へ、智宏の頭は落下した。
 血だ。血だ。すべて血だ。血だ。誰の血だ? 小田春生の? 倫香の? 翼の?
 ――いや、違う。
 腑抜けた味がする。これは、好きな女の子を守れず、無二の親友を死に追いやった、愚かな男の血なのだ。血を流すのは自分だけでよかった。愚かな俺だけで。そうだ、俺は血の気が多いんだ。俺、翼と倫香の失った分だけ血を流すから、誰か、どうにかふたりを元に戻してやってはくれないだろうか。
 土台無理な話だった。智宏は、ああ、と息を吐いた。
 ――じいちゃん。俺、いろいろ失くしすぎたよ。あれやらなきゃな、なくしものが見つかるおまじない。何かを糸で吊るすんだよな、なんだったかな――。
「はさみ、か……」
 そう言ったのを最後に、智宏の心肺機能は停止した。

「あれ。お前、俺がはさみ隠してるって知ってたの。それで怒ってたの」
 小田春生はというと、畠山智宏を膝の上に乗せたまま首を捻っていた。捻りながら、釣堀小屋のてっぺんあたり、赤い火先と黒い煤と黄色の空がない交ぜになっている空間を見た。
「あーあ。ひとりじゃバケツリレーできないじゃん」
 そう不平を漏らしたものの、胸には確かな充実感が広がっていた。人質ごっこ、それにここへきて初めての肉弾戦という、予定外の収穫があったのだ。大変に愉快な気分だった。
 春生は口角を持ち上げないまま、ははは、と笑った。春生自身に自覚はなかったが、彼が笑ったのは本当に久しぶりのことだった。

女子10番 根尾倫香        
男子12番 畠山智宏 死亡
【残り27人】