26
 火はほとんど爆発するように燃え広がり、小屋を飲み込んでいった。
 午前6時の放送が始まっていたが、当然ながら聞いている余裕はなかった。智宏は熱風の強い力によって外へ放り出され、芝生の上に転がった。額やまぶたや腕、体の露出した部分が今にもひからびてしまいそうだ。ぶつっ、という放送の切れる音が、妙にはっきりと聞こえた。
 その圧倒的な熱に縮み上がりながらも、智宏は自分の左手に倫香の右手が握られていることを確認した。不幸中の幸いといおうか、火が出る前に傍にいられたため、こうして彼女を連れ出すことができたのだった。身を起こすと、隣にぺたんと座っている倫香が目に入った。髪が風に煽られて表情を隠しているが、どうやら怪我はないようだった。
「なにこれなにこれ!」
 ぱちぱちごうごうと唸る炎に負けじと、翼がいつにも増して騒がしい。炎の近くで跳ね回る翼を横目に、駒澤岸郎が智宏の眼前でつぶやいた。
「ペットボトルだ」
 てっきりまた心霊現象と結びつけるものだと思っていたが、岸郎の言葉は意外に現実的だった。揺れ動く光にも隠せないほど、その背中は震えている。
「あの中にガソリンだか灯油だかが入っていたんだ。触ったら水よりさらさらしていた」
 岸郎が右薬指の爪を弾くのを見て、智宏は息を呑んだ。岸郎の手のひら一面、表皮が黒く焦げたように剥け、その下の真皮がぬらぬらと照り輝いているのだ。彼の言うとおりだとすると、手についた燃焼促進物が引火したのかもしれない。
「あーっ! くさかったのってそれだったの? でもでも、ガソリンだったらもっとにおうんじゃない?」
 翼はまだ小屋から離れない。さすがの楽天家も、今度ばかりは慌てているようだ。
「危ないからこっち来い!」智宏は翼に手招きした。「たぶんホワイトガソリンじゃないか。においがきつくない」
 以前、家族総出でキャンプをしたとき、ホワイトガソリンをランプの燃料に使った覚えがある。そのときに祖父から注意するようしつこく言い聞かせられたのだが、ガソリンは気化する割合が高く、その可燃ガスに酸素が混ざると非常に着火しやすくなるらしい。ペットボトルの中身がいつからこぼれていたのかわからないが、室内には少なからずガスが発生していたはずだ。そこへ、ライターが点火した。さらにまずいことに、小屋の中は燃えやすいものであふれていた。火災発生の条件が見事に揃ってしまったわけだ。
「湯浅か?」
 岸郎は地団太踏んだ。声が次第に熱を帯びてゆく。
「やつの仕業なのか? すべて計算だったということかっ?」
「計算?」
 呆然とその単語を発する。途端、これまで麻痺していた恐怖心が活発に働き始めた。
 ――殺されるところだったのか?
 もし、これが仕組まれたことなら――そう、自分たちは危うく殺されるところだった。明確な殺意によって、焼き殺されようとしていたのだ。
 出火直前の退去。手渡された煙草。寝床に撒かれたガソリン。合流の誘い。如才なき人付き合い。薄笑い。その奥の冷え切った瞳――。ここにいない人物の挙動が、なにもかも疑わしく思えてならなかった。
「あれっ? 青木がいないよ!」
 そんな翼の報告に智宏は顔を上げた。慌ててあたりを見回したが、芝生の上にあるのは、湯浅荘吾と青木洸輔を除く4人の姿、それに燃え盛る釣堀小屋だけだ。智宏の脳裏に、洸輔のライターから立ち上る火柱が浮かんだ。
 オレンジ色の光に照らされているはずなのに、岸郎の顔が青くなるのがわかった。
「……逃げ遅れたんだ」
「えっ! 火の中? あっ!」
 こちらへ駆け寄ったばかりの翼を押しのけて、岸郎は炎へと向かっていった。
「よせ!」
 智宏はその後を追い、岸郎に飛び掛った。身長差があるため、ほとんどぶら下がるような形になってしまったが、それでも懸命に相手を羽交い絞めした。岸郎のほうも全力で抵抗した。
「離せ!」
 無理な話だった。言動がどんなに気に障ろうが、岸郎はクラスメイトに変わりない。もう小屋の形もわからないほど、炎は勢いを増しているのだ。危険なのはそれこそ火を見るより明らかだった。
「離してくれ!」
「死ぬ気か!」
「君だって友達の霊を見たいとは思わないだろう!」
 岸郎が悲鳴にも似た声を上げる。その勢いにたじろいで、智宏はつい相手の肩に食いついている両手を緩めてしまった。岸郎はすかさず背中の荷を振るい落とした。智宏は尻餅をつきながらも、すぐまた起き上がった。
 こうしている間、智宏の頭からは消えてしまっていた。本当に執着すべきものが、ほかにあることを。
「ぃあああああああっ!」
 突然、激しい叫び声に耳を突き刺された。
 智宏は驚いて顔を後ろに向けた。小屋から少し離れている場所、智宏が先ほどまでいたその場所に、翼と倫香が並んでいる。その倫香の様子がなにやらおかしい。
「なんで言わないのっ?」
「倫香?」
 智宏と翼が彼女の名を呼ぶ。わけがわからず、男たちはただ唖然としていた。
「あたしのことが嫌いならはっきり言えばいいじゃない!」
 倫香はなおもわめいた。ぱっちりとした目は血走り、綺麗に並んだ歯は剥かれている。何事かと、智宏が倫香に寄ろうとした、次の瞬間――。
 両手に抱かれていた装飾短剣が、隣の翼に向かって大きく振りかぶられた。
「倫香!」
 智宏ははじかれたように走り出した。
 美しい刻印が打たれたその刃が、ぎらりと光を跳ね返す。翼が倫香に手を伸ばす。倫香は目を瞑り、武器は降下していく。炎のざわめき、揺らめきも、その一刹那だけはゆっくりと動いていた。
 智宏がふたりの元へ辿り着くのとそれとは、ほぼ同時に起こった。
 ざくっ、という小気味良い音がして、装飾短剣は翼の薄い左肩に着地した。
「あっ」
 翼が先に、智宏がその上から倫香の手首を掴んだが、勢いを止めるまでには至らなかった。凶刃は翼の右腰あたりまで一気に駆け抜けた。軌跡から、赤い液体が噴き出した。智宏は親友から降り注ぐ雨を浴びることしかできなかった。
「……あーあ」
 翼は間の抜けた調子でひとりごち、ぱたりとくずおれた。倫香は血まみれの短剣を落とすと、その場にへたり込んだ。
「…………」
 ふたりの友人、どっちの名前を呼んでいいのかわからなかった。智宏は頭の中がぐちゃぐちゃになるのを感じながら、激情が去って無表情になった倫香を見、それから翼を見た。
 ひどい出血だった。カッターシャツは元から色づいていたかのように、赤く染めあげられつつある。血は地面が吸い取るよりも速いペースであふれていく。
「おい!」智宏はひざまずき、翼の頬を軽く叩いた。「しっかりしろ! 聞こえるか!」
 反応は見られなかった。それでも必死で声を掛け続けていると、翼はやがて目を薄く開き、難儀そうに眉根を寄せた。
「うるさいよ、はっつぁん」
 翼にそぐわない、弱々しい声だった。智宏が言葉を失っていると、翼はずいぶん骨を折ってこちらを指差した。
「はっつぁん、前髪、チリチリ。カミナリ様、みたい」
「あんまり喋るなっ」
 不意に目頭が熱くなったが、智宏は歯を食いしばって感情を押し込めた。止血をしなければならないと思い立ち、シャツを脱ぎ、傷口に添わせた。
「こらえろ! 大丈夫だからな、落ち着け……!」
「はっつぁんが、ね」
 のん気に相槌を打つ翼の顔から、急速に色が抜け落ちていく。まるで、命までも一緒に地中の深い深いところへ染み込んでいくようだった。見ていられなかった。
 ――はっつぁん、はっつぁん、はっつぁん。
 翼の元気な声が耳の裏でよみがえる。わんわん、わんわんと、いろいろな場面が音声付きで浮かび、響いた。
 調理実習のとき、翼が材料を細かく刻みすぎたおかげで、肉じゃがをスプーンで食べざるを得なくなった(「おしゃれっしょ、クラムチャウダーみたいで」)。図々しくて、畠山家にも毎日のように入り浸っていたものだ。末っ子の勇真とよく遊んでくれたが、テレビゲームでもキックボードでも、たいてい最後には独り占めしていた(「勇真ってさ、なんだかんだ言って俺のこと好きだよねー。え? 聞こえない」)。考えてみれば、家族よりも多くの時間を共に過ごしていた。サッカーの試合に出るときも、必ずふたりセットだった。群を抜いて小柄な翼と智宏はチームメイトから馬鹿にされたが、それが意気投合するきっかけとなったのだった(「はっつぁんからもらうパスって、軽くて最高に気持ちいいんだ」)。
 暖かな湿り気が手のひらに触った。見ると、智宏のシャツに鮮やかな赤が現れ始めていた。血は止まるところを知らないようだった。
 血だ、とにかく血を止めなければならない。智宏は混乱する頭をフル稼働させて、応急手当の手順を引き出そうとしていた。そうだ、心臓に近い位置を紐で縛れば――いやしかし、傷がこんなに大きいときはいったいどうすれば――。
 がっと、智宏の手の上に翼の手が乗った。
「翼?」
「ね、お、思い、だした」
 絞り出すように翼が言う。智宏は焦燥感に胸を締め上げられながら、辛うじて返事した。
「なんだ?」
「はっつぁんの……じいちゃんに、い、言われたこと」翼の顔が少しだけ得意げにほころんだ。「“人の洞察力は”……」
「……“確かにその怒りを遅くする”」
 沈黙した翼の後を、智宏が引き継いだ。
 それは確かに、智宏の祖父がよく口にする何かの格言だったが、今の智宏にとって言葉の意味はさして重要でない。それを翼が言ったということ自体が、智宏の思考をひっくり返すほどの力を持っていたのだった。
 翼は何を教えてもすぐに忘れてしまう。忘れたことは2度と思い出さない。しかし、その約束事を今しがた破ってしまった。日常生活では起こりえないことだった。
 もう長くないのだ、と智宏は悟った。
 翼の丸い頬にぽたりと水滴が落ちた。それを見て初めて、智宏は自分が泣いているのだと気づいた。翼を不安にさせまいと目を拭ったが、涙は後から後から、まるで工場のベルトコンベヤーに乗せられたみたいにこぼれた。もうどうすることもできなかった、自分のことも、親友のことも。
「ね……」
 翼がごろりと首をひねる。その拍子に左目尻から水のようなものがすっと落ちた。もっとも、顔の左半分はすでに智宏の涙でびしょびしょだったので、それが智宏から出たものなのか、翼から出たものなのか、判断がつきかねるところだったが。
「こ、これって、記録に……残ったり、すんの、か、な」翼は途切れ途切れに言いながら、苦痛を表情ににじませた。「倫香が、お、俺を……」
 話はそこで中断されたが、そうだ、と智宏は気付いた。このままでは倫香が殺人者になってしまうではないか。たとえ、あらゆる犯罪行為がこのゲーム内では合法で行えるとしても、彼女に背負わせるには重すぎる事実だった。
 ――だから、ね、はっつぁん。
 口が動くだけで、声はもう出ていない。しかし翼の言わんとすることは理解できた。
 もし自分が同じ状況にあったとしても、やはり同じ事を翼に頼むだろう。正しいことなのか、間違ったことなのか、そんなことはわからない。しかしきっと――俺たちは、そうすることでしか報われない。
 翼の指に力がこめられ、“爪”が智宏の手の甲に食い込んだ。ちくり、ちくり、ほんの小さな痛みが、智宏を鼓舞した。
「わかった……」
 翼の唇が上下していた。何を言うのかと目を見張っていると、かすかな声が耳に届いた。
「へんなかお」
 そう囁いて、翼はにっと笑った。
「……言ったな」
 智宏はぐちゃぐちゃに濡れた顔面をこすって、大げさに笑い返した。涙はもう流れなかった。
 ――静かだ、とふと思った。
 不思議なくらい静かだった。聞こえるのは建物のはぜる音だけだ。それもどこか、ずっと遠くのほうで鳴っているように感じられた。
 手を伸ばすと、倫香の落とした装飾短剣があった。智宏はそれを拾い上げ、ごてごてと飾られた柄を逆手に持った。
 ――翼。
 口の中で親友の名を呼ぶ。相手の眼球には、冴え冴えと自分の姿が映っていた。腕が実体のないもののようにふわふわとしていたが、どうにかして力を込めた。
 そうして、鋭い切っ先は抵抗なく、翼の胸に吸い込まれていったのだった。
 もうぴくりとも動かなくなるまで、智宏はずっとずっと、翼を見つめていた。

男子19番 横田翼 死亡
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