24
 きらい。
 きらい。きらい。嫌い。
 きらいきらい嫌いきらいきらいきらいきらい嫌いきらいきらい嫌い嫌いきらいキライきらいきらいきらい嫌いきらい――。
 数えてみると、実に23個の“きらい”があった。
 ある文字は鉛筆の黒で、ある文字はキラキラ光るラメ入りのピンクで。明らかに小学生の文字もあれば、ワープロ書きや、わざわざ新聞から切り抜かれたものまであった。それらの全てが自分に宛てられた手紙だった。
 それはもう何年も前のことだ。しかし、今でも鮮烈な記憶として、頭や心臓をぐさりぐさりと痛めつける。
 悔しくて、悲しくて、なによりも恥ずかしくて、誰にも救いを求めることはできなかった。自分が事件に巻き込まれたことに誰も気付いてはくれなくて、みじめさは色を濃くするばかりだった。そばにいたたったひとりの友達でさえ、慰めてくれることはなかった。
 世界は石でできている。あの子の心も、みんなの心も、冷たくて硬くて無頓着な石でできている。だから、生身の人間である自分は、どこへ行っても傷ついてしまう。
 みんなは、あたしを傷つけて、弱らせて。
 ずっと。
 あたしが消えてしまうのを待ってるんだ。

「お疲れ、3兄弟。着いたよ。ここが集合場所だ」
 その明朗な声につられ、根尾倫香(女子10番)は顔を上げた。
 視線の先には池があった。広さは学校のプールほどもあるだろうか、水面の中央に丸い月影が浮かんでいる。それはまるで、大きな生き物の瞳みたいに見えた。墨を溜めたように真っ黒な池の中、餌が近づいてくるのを待ち構えて、じっと目を光らせている怪物。そこへ愚かな人間たちがのこのこ現れて――。
 池の脇にはプレハブ小屋が建っていた。薄い壁に“つりぼり”と走り書きされた木札がくっついている。その下の引き戸はガラス張りだが、カーテンが引かれているため、中の様子を知ることはできない。窓という窓に目隠しがされ、建物はひっそりと静まり返っている。
「ここにいるふたりは、本当に人数が増えることを承知してるんだろうな」
 “下心”がそのいやらしい口を慎重に開く。質問を掛けられた“キツネ”は、噛み付くために尖らせたかのような牙を見せ、頷いた。
「もちろんだ。ちっと気が立ってはいるけど、極めて冷静なやつらだよ。あんま警戒しないでくれな」
「それは無理な話だ。こちとら命掛かってるんだから」
「はっつぁんはなんでそうかな」“お子様”が無邪気に爆弾を投げる。「男なら石橋を1回で叩き割れだよ」
「割っちゃいかんだろ」
「お前の頭も叩き割ってやろうか」
 最悪の気分だった。そもそも倫香には、このゲームで誰かと合流する気なんて毛頭なかった。それなのに、横田翼(男子19番)に捕捉され、畠山智宏(男子12番)に束縛され、湯浅荘吾(男子18番)に無理やりここまで拉致されたのだった。か弱い倫香は抵抗もできず、逃げ出す機会を探すことにのみに徹しているが、事態はさらに悪い方向へと進んでいた。
「そんなにいろいろ怪しんでたらさ、はっつぁん、じいちゃんに怒られるよ」
「……じいちゃんの話はやめてくれよ。弱いんだから」
「この前じいちゃんがいいこと言ってたよ。えーと、怒りがどうとかこうとか」
「覚えてないのかよ」
 湯浅荘吾は小柄な男たちのやりとりににやつきながら、プレハブ小屋の玄関をノックした。連続で4回、コンコンコンコン、次は1回、コン、更に3回、コンコンコン。キツネが人を化かしているみたいなその調子に、倫香はますます気分が悪くなった。それからガラスに顔を近づけて囁く。
「えぇっと……イフタフ・ヤー・シムシム」
「開け、地獄の門」
「了解」
 扉の向こうから地を這うような湿った声がして、引き戸がゆっくりと開け放たれた。
 「なに今の、合言葉?」とはしゃぐ翼を手始めに、荘吾は3人を小屋の中にすばやく押し込める。戸をくぐると、そこには懐中電灯の光が散っていた。何層にも重なった赤っぽい仄明かりの中に、事務机やダンボールなどが所狭しと詰め込まれ、個人で楽しむには多すぎる数の釣り道具が棚に並べられている。
「よう。横田に、畠山に――根尾さんか」
 気だるそうな足取りで倫香たちを出迎えたのは青木洸輔(男子1番)だった。男にしては長い髪の合間、無愛想な顔がちらちらと見え隠れする。
「お前らなんかこれっぽっちも歓迎してないぞ」
 その後ろから、血の気の感じられない真っ白な顔が覗いた。駒澤岸郎(男子7番)、能面のような顔をしたその男は、先ほどと同じ妙に湿り気のある声で呟いた。
「さて、取って食ってやろう」
「……におうな」
「え、そう? たしかにそろそろ風呂に入んなきゃやばい時間だけどさ」
 翼が袖口を匂いながら親友に目配せをし、なんだよ、と智宏が眉を寄せる。岸郎も智宏をしばらく凝視したのち、言った。
「こんなに臭いのに、君たちはよく平気な顔をしていられるな。畠山。おそらく発生源は君の肩に乗っている人だぞ」
「えっ?」
 智宏はぎょっとして、自分の肩に目をやった。もちろんそこにはデイパックがかかっているだけだ。
「……そんなことはどうでもいい。身体検査をする」
「ま、待ってくれよ。なんだよ肩って」
「疑ってるわけじゃないけど、念のため、な」岸郎に代わって、青木洸輔がわずらわしそうに取り繕う。「畠山と横田はコマ、根尾さんと湯浅は俺が調べる」
「俺もかよ? さっき受けたじゃないの」
 湯浅荘吾がうんざりしたように文句をたれたが、洸輔はかまわず相手をまさぐり始めた。
 ボディーチェックをされるかもしれないという話はあらかじめ荘吾から聞かされていた。とはいえ、よく知りもしない男にこれから自分の体が弄ばれるのだと思うと、倫香は鳥肌をたてずにいられない。あの、硬くてがさがさしていそうな、節くれ立った手で――。
「かわいがってやるよ」
 一歩後ずさりして、すっかり手のひらと接着してしまった装飾短剣を胸に抱いた。すると、その様子を横目で見ていた畠山智宏が口をはさんだ。
「倫香は勘弁してやってくれないか」
「倫香は俺のだ」
「例外は認めない」駒澤岸郎の陰気な声が耳を刺す。「それとも、なにかやましいことがあるのか?」
「まあ、僕も邪心の権化みたいなものだけれどな」
「……なら、俺が調べる」
「すみからすみまで」
「最初っからそれが狙いだったんじゃないの?」
「エロオヤジだなー、はっつぁんは」
「翼は黙ってろ。駒澤、察してくれ」
「そんなことが許されるわけないだろう」
「まあまあ」
 早々に荘吾を確かめ終えた洸輔が、にらみ合う男たちの間に割って入った。
「根尾さんのことはみんなで見張る」
「そして、みんなで殺す」
「それでいいだろ、コマ」
 岸郎は不快感を満面に表したが、それ以上反論することはなかった。
 それで倫香はとりあえず、装飾短剣から片方の手を離した。しかし当然ながら、不安材料がすべて消えたわけではない。
 倫香は増殖し続ける邪魔者たちを視界に収めた。全員が何食わぬ顔をしているが、倫香にははっきりと見えた。ブレザーやカッターシャツの胸ポケットのあたり、グロテスクな唇のようなものがぱっくりと開いて、口々に本音を言い合っているのが。
「あー、めんどくせえな、みんなぶっ殺しちゃおうか」
 青木洸輔の第二の口が動く。小学生のころ、大変に活発なスポーツマンだった洸輔は、中学に入ってから堕落し始め、今では保健室に入り浸っているサボリ魔だ。なにをするにもいい加減で、たまにクラスメイトの前に現れては適当に人付き合いをし、適当に采配を振るう。気まぐれで殺人を犯す可能性もある。
「こっくりさんこっくりさん、この者たちをを呪ってくれませんか?」
 いつ悪霊が呼び寄せられてもおかしくないような鬼気迫る雰囲気で、駒澤岸郎は身体検査を始めている。岸郎は普段からオカルトじみた言動が目立つ男だった。先ほどの怪しげな合言葉もこの男が取り決めたに違いない。もしかすると、幽霊を操って他人を襲わせる呪文、なんてものも習得しているかもしれない。
 岸郎に調べられている横田翼は、はあ、とため息をついた。
「はっつぁん、のど渇いた」
「はっつぁん、のど渇いた」
 翼はというと、外見、声、精神年齢に至るまで全てがお子様で、裏も表も区別がない。しかし軽んじてならないのは、幼さゆえの突飛さだ。翼は周りの迷惑を顧みず、しばしば奇妙奇天烈な行動を起こす。このプログラムをいつもの調子で過ごされると、迷惑を被るどころの騒ぎじゃなくなるのだ。
 畠山智宏は、翼のデイパックからペットボトルをしぶしぶ出しながら、気遣わしそうな視線を倫香に向けた。
「なんてかわいいんだ、倫香、愛してる、愛してる……」
 智宏はいつも倫香に助け舟を出してくれる。しかし倫香は、智宏に感謝をしたことなど一度もなかった。この男が自分に注ぐ惜しみない優しさは、下心から生じているものだと知っているからだ。
「うふふ、獲物がこんなにいっぱい。化かしがいがある」
 いつの間に移動したのか、湯浅荘吾は釣り道具が並ぶ棚の前で高みの見物を決め込んでいた。荘吾の尻にはふさふさの尻尾が、頭には三角の大きな耳が生えているように見える(頭の上と顔の横、計4つも耳があるさまはいささか滑稽だ)。この“キツネ”からは、悪巧みの匂いがぷんぷんする。仲間を集めたいだのなんだのと巧弁を振るっている陰で、こいつらをどうたぶらかしてやろうかと真っ赤な舌を出しているに違いない。
 ――最悪のメンバーだった。
 もっとも、今の倫香の心理状態では、どんな善人にも“最悪”の評価が下るだろう。この戦場に連れてこられてからは、仲の良かった畠山智宏や横田翼にさえ心を開けずにいる。――いや、それよりも前、3年3組の教室で平穏な学校生活を送っていたときも、ふたりのことはただの退屈しのぎとしか見ていなかった。あるいは、もっとずっと以前から――そう、小学4年生のある日を境に、倫香は誰にも信用を置かなくなっていた。
 倫香の目には、自分以外のすべての人間がもはや敵としか映らなかった。その思考は、幼い頃から培い、今では骨の髄まで染み付いた、一種の自己防衛策であったと言える。

『これは不幸の手紙です。この手紙を受け取った1週間以内に、あなたのきらいな人1人に同じ内容の手紙を出してください。出さなければ、あなたに不幸なことがおこります。これはいたずらではありません。H市の小学生Fくんはこの手紙を止めたために通り魔にナイフでめったざしにされて死にました』

 そんな内容の手紙が根尾家の郵便受けに投函されたのは、小学4年生の3学期が終わろうとしていた、ある早春の昼下がりだった。
 宛先は“根尾倫香様”で、差出人は空白、字は子供が書いたもののようだった。手紙を出さなければ死ぬという脅し文句は幼い倫香を青くさせたが、それよりもっと大きな衝撃が、ある一文に潜んでいたのだった。
『あなたのきらいな人1人に』
 そのくだりを認識した途端、手紙を持つ手の力が抜け、手紙が宙を舞った。目の前にぐにゃぐにゃした赤や緑のもやがかかったようになって、紙切れがフローリングの床へ落ちていくのも見えなかった。
 ――あなたのきらいな人?
 ――あなた、は、この手紙を出したやつ?
 ――この手紙を出したやつ、のきらいな人、は、――あたし?
 知らない人を嫌いになんかならない。つまりあきらかに、相手は自分のことを知っている。そして、自分が相手を知っていることも充分に考えられる。
 ひどい屈辱だった。ことに倫香は、自身の美貌に絶対の自信を持っていた。羨望を浴びこそすれ、嫌われるなんて話は寝耳に水だ。かわいい自分になぜこんなものが届くのか。まったくもって理解できなかった。
 信じられないことに、それは1通では済まなかった。次の日も、また次の日も、同じ内容の手紙が倫香に送られてきた。魔の手は学校にまで及び、教科書の間や、ランドセルを入れるロッカーに差し込まれたこともあった。終業式を迎えたあとも手紙は届き続けた。最終的には23通もの“きらい宣言”が倫香の勉強机にあふれかえった。
 倫香には当時、クラスにたったひとりだけ友達がいたが、彼女にさえ相談できなかった。そんなことはプライドが許さなかったし、それにとても恐ろしかった、最悪な回答が返ってきそうで。こんなものが届いたんだけどどうしよう、ああこれ、あたしが書いたんだよ――(その判断は正しかったといえる。もし、実はその友達が倫香のことを恨んでいて、倫香が嫌われていることを承知の上でクラス全員に手紙を送ったなんてことを知れば、今も失意から立ち直っていなかったかもしれない)。
 春休みに入ってしまったこともあり、結局のところ真相は確かめられなかった。しかし、犯人はクラスメイト以外には考えられなかった。小学生の倫香にとって、彼女の在籍していた4年1組が社会そのものだったのだ。人口40人という狭い世界で23人からつばを吐きかけられた、その絶望的な数字は、倫香の許容範囲を大幅に超えるものだった。
 ひとしきり混乱しあぐねた挙句、脳の働きによって、“嫌われ者”というレッテルは隅の隅へ追いやられた。残ったのは、ひとつのある疑問だった。
 嫌いなんて、あたし、誰にも言われたことない。
 あたしがいつも見てた顔は、うその顔なのかしら?
 みんな、みんな?

 そうして、倫香はまばたきもせず、“うその顔”の群れを睨めつけている。ちょうど、先住民たちによる身体検査も終わり、情報交換が始まったところだ。
「僕らが待ち合わせをしていたところに湯浅が舞い込んできたのさ」
 率先して話し始めたのは駒澤岸郎だった。新しい加盟者たちに危険がないと判断したのか、いつもどおりの早口が戻ってきている。
「僕と青木。それから鳥居も誘ったのだけど、まだ来ない。もしかすると小屋の周りにいるたくさんの女学生たちに足止めされているのかもしれない。鳥居もなかなか、見える体質だから」
「やめてくれよ」
 怪談の類が苦手だという畠山智宏は、露骨にいやそうな表情をしている。一方の横田翼は興味深そうだ。
「鳥居のまっさんはまだ来てないのか。そういや野活のときも迷子になってたっけな」
 湯浅荘吾が身を乗り出す。
「ああ、困ったやつだよ。ところで長谷さんは?」
「ナッちゃんな。畠山ちゃんたちと会う前にいったん覗いてみたんだが、ぐっすり寝てたからそのままにしといたよ。あっちの方が隠れやすいし、できりゃあ早く移りたいんだけどな。鳥居ちゃんが来ないことにはな……」
「鳥居は僕らと合流するつもりはないとも考えられる。そうだな、6時、6時まで待ってみて、それでも来なければ移動しよう」
 鳥居雅治(男子11番)長谷ナツキ(女子11番)が話題に上ったようだが、ここにいない人間のことは倫香には関係のないことだった。
「どうやって集まったのか、そういやまだ聞いてなかったよな」
 荘吾が言うと、ダンボールにだらしなく腰掛けていた青木洸輔が、ゆるゆると手のひらを差し出した。そこには大きく“池に行け”と書かれてある。
 敵の顔面ばかりに気をとられていた倫香は、その不意打ちをまともに食らうことになった。例えるとするなら、釣鐘を鳴らす撞木で殴られたみたいな衝撃が、頭を突き抜けたのだった。
「出発するとき、コマとまっさんにだけこれ見せながら出た。月家具が言ってただろ、東に池があるって。とりあえず、そこで待ち合わせようと思って」
「そうか、3人、席近かったもんな」
「いけにいけって、洒落か」
「はっつぁん。そういう発想が、さむーいオヤジギャグをはびこらせることになるんだよ」
「うるさい」
 男たちが話を進めるのも、倫香にはまるで聞こえていなかった。
 青木洸輔の手に書かれた文字には見覚えがあった。“け”の字の3画目、本来なら払うところが、上に大きく撥ねている。きっと、今でも勉強机の奥に眠っている手紙の群れを探せば、これと同じ“け”が見つかるだろう。
 倫香は、つりあがった大きな目をさらに見開いて、その男の顔を見た。
 男はおっくうな感じで口を動かしている。そこへ、胸元にくっついていた心の口が肌を這って上り、ついにはぴったりと重なり合った。
「きらい」
「みんながお前のことを嫌ってる」
「お前なんか、いなくなってしまえばいいんだ!」

 世界は石でできている。
 みんなの心も、冷たくて硬くて無頓着な石でできている。
 だったら。
 考えるのだ。
 生身の人間である自分が傷ついてしまわないために、どうすれば一番いいのかを。

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