20
「なんで、プログラムなんかがあるの……?」
「わかんない。ほんと、国のえらい人が考えてることはわけわかんないよ。あの人たちがプログラムに参加すればいいのに」
 西村美依(女子9番)の歩いてきた山道が、にわかに様相を変えた。砂利道がアスファルトになり、下り坂が緩やかになり、両手に迫る山肌の間が急激に広がる。美依はその場――エリアF=5の中心あたりで立ち止まり、しゃがみこんだ。
 これから先には、まっすぐ伸びる道路と、その両脇に広がる枯れた畑が立ちはだかっていた。200メートルほど先の急カーブまでやたらと見通しがよく、隠れられそうな遮蔽物がまったくない。暗いとはいえ、尾行をするには悪条件だ。美依はほとほと困って、ひとまず双眼鏡を目に添えた。
 ふたつの影が見えた。大柄なほうが高橋絹代(女子5番)、ぴょこぴょこ跳ねているのが木下亜央(女子3番)だ。ふたりはたえず会話しているようで、身振り手振りを交えながら、ゆるゆると道を進んでいる。
「国防上必要な、わが国唯一の徴兵制……」
 亜央がこめかみに人差し指をあて、考えるポーズをした。
「おかしいよね? 兵隊を育てるためなんなら、なんで参加したほとんどが死んじゃうのって話だよね?」
 絹代は首を傾げた。
 数10メートルの距離を挟んでいるため、美依にふたりの声は聞こえない。そんなわけで、美依は先ほどからアフレコに興じていた。もちろん心の中でだが。
「私たちも、死んじゃうの……?」
 亜央が絹代の方を向いて何かを言い、美依は発言の内容をそう推測した。
 ――いや。亜央ちゃんの一人称は“私”じゃなくて“亜央”かな?
 いったん自分の考えをあやしんでみると、急にすべてが疑わしく思えてきた。これまで勝手に想像したふたりの会話は、ふたりには少し堅すぎないだろうか。
 次に目に映ったのは、亜央の足元を大げさに指差す絹代の姿だった。
「それ、レッグウォーマーだったんだ」
「うん」
「ルーズソックスかと思ってたよ。そんなのどこで買ったの?」
「ランモールのところ」
「ああ、あそこ安いよね。でもそういうのって、私が履くとルーズじゃなくなっちゃうんだよね」
 ――これだ。こっちの方がよっぽど現実味がある。
 彼女たちはいかにも社会情勢に疎そうだ。そんなふたりの間で、プログラムに関した話が長く持つとは思えない。もし仮に議論がされていたとしても、早い段階で雑談に摩り替わるだろう。
「あーあ、ダイエットしなきゃ」
 絹代がうなだれると、亜央の肩が小刻みに揺れた。どうやら笑っているらしい。美依もつられて笑い顔になったが、すぐに口を引き結んだ。それどころではなかった。
 そう、問題は解決していない。行く手に控えるだだっ広い空間でいかように追跡を続けるか、その策を練らなければならない。こうして歩みを止めていては、ターゲットとの距離は延びる一方だ。
 美依はすばやく考えた。
 ――曲がるまで待とうかな?
 彼女たちの行く一本道は200メートル先で右に折れ曲がっており、その先は畑に突き出た林が遮っている。カーブを越えてくれれば向こうからこちらの姿は見えなくなり、見晴らしがきく広場も気兼ねなく歩けるわけだ。しかし同時に、こちらからも向こうの姿が確認できなくなるので、見失ってしまう危険性は高い。
 ――じゃあ、ほふく前進で追う、なんてどうかな。
 たしかに、立っているよりは目立ちにくいかもしれない。しかし速度ははるかに劣るだろうし、体力をやたらと費やしそうだし、なにより見つかったときに恥ずかしい。
 ――なら、諦める?
 常識の範囲で考えれば、尾行などといういかがわしい行為はやめるべきなのだ。それでも、殺すため、あるいは仲間に入れてもらうために様子を窺っているというなら意義はある。だが、目的は観察そのものだ。やる気の殺人鬼はもちろん、恐怖に震えている生徒からも、また主催者側からも、失笑を買うことは必至だ。
 ただ、彼女たちの言う“殺したいひとり”のことは気にかかる。それを知る前に断念するなんて、好奇心が許すはずもない。
 となると――残るは、奥の手だ。
 彼女たちを1時間ほど追いかけてみて、美依はひとつの幸運に気づいていた。彼女たちは、商店街を出て山道を越え、ここF=5エリアにやってくるまで、ただの一度も振り返らなかった。隣の相棒を見ることはあっても、それより後ろに注意を向ける様子がない。だからこそ美依も安心して跡をつけられた。
 信じるのだ、ふたりを。その無頓着さを。次の遮蔽物に辿り着くまで、彼女たちが前を向き続けることを祈りつつ、変わらず尾行を続ける。それに賭ける。
 期待は裏切られない、という確信に近い思いが、だんだんと胸に膨らんできた。なにせ、相手はあのふたりである。パジャマで登校したことがある木下亜央と、1日で4回も犬のフンを踏むという大記録を打ち出した高橋絹代。追跡の対象としては素晴らしい人材だ。
 美依はそっと立ち上がり、歩を踏み出した。左から右へ、風が吹き抜ける。足音が空気に吸い込まれる。心細かったが、ターゲットの影が消えていないことを再確認することで、気持ちを奮い立たせた。
 そういえば、と美依は思い出した。母からよく薦められた本の中に、“探偵入門書”というものがあった。本嫌いの美依は目次を読んだだけで放り出してしまったが、たしか尾行や張り込みのノウハウも書き記されていたはずだ。それを読んでいれば、少しは役に立ったかもしれない。
 母は他にも、プログラム参加者にとっての良書を持っていた。“ザ・殺人術”やら“ザ・必殺術”やらがその筆頭だ。これらはどうやら東亜語訳された洋書らしかった。準鎖国状態にあるこの国では、翻訳本は非常に入手しにくい。「面白いから読んでみなよ、ためになるからさあ」と差し出されたところで、怪しすぎて触る気も起きなかった。
 本だけではない。母の教育方針は、一貫してプログラムに基づいていた。もとより母は、“ゲーム”に参加できなかったことを40歳の大台に乗った今でも悔やんでいるような変わり者だ。彼女の娘である美依は、生まれながらにして破れた夢を担わされることになったのだった。
 プログラムに持久力は欠かせない、だからランニングを日課とさせる。プログラム中に体調を崩しては元も子もない、だから栄養状態には常に気を使っておく。プログラムにとって睡眠は敵だ、だから時に72時間の不眠耐久を強いる。
 漠然と参加したいとは思いつつも、父に似てあまり真面目でない美依は、どれも真剣に取り組むことはなかった。だが、2日間くらいなら不眠不休で過ごせるだろう。母のおかげだ。
「お母さん、なにしてるのかなあ」
 はるか前方に、頭を垂れる高橋絹代の姿があった。今しがたまで母のことを考えていたせいか、美依には絹代が母親を恋しがっているように見えた。
 ――きっとね、じっと眠れない夜を過ごしてるよ。絹代ちゃんのお母さんも、亜央ちゃんのお母さんも。
「なんてね」
 美依は自嘲気味につぶやき、感傷的になっている心を笑った。
 母の自分への接し方に異議を唱えるつもりはない。変だとは思うが、決して嫌ではない。プログラムで優勝すること、母が娘に望むことはそれだけだったので、学校の成績がいくら悪くてもお小言ひとつ食らわなかった。むしろありがたいくらいだ。
 ただ、おそらく美依の母親は、すでにベッドに入って寝息を立てていることだろう。そう考えると、少しだけ足を運ぶのが億劫になった。
 美依は小さくかぶりを振り、正面を見た。
 絹代たちが急カーブに差し掛かろうとしていた。その20メートルほど手前に、農具を収めるためなのか、古めかしい小屋が建っている。美依は安心して、陰へと急いだ。
 そのときだった。木下亜央のツインテールが揺れたかと思うと、顔がくるりと半回転した。
 美依はぎょっとして、とっさに駆けた。亜央がこちらを向く前に小屋には辿り着けたが、もしかしたら髪の端っこくらいは視界に入ったかもしれなかった。
 息を潜め、耳をそばだてる。追跡目標がUターンしてくるのではないかと、気が気でなかった。心臓が痛いほどに早鐘を打った。
 完全なる不意打ちだ。ちょっと油断したときに限ってこういうことになる。もしかしたら、彼女たちは自分の尾行にとっくに気づいていて、あえて知らないふりをしているのではないかとさえ思えてきた。
 美依は緊張しながら、小屋の角からそっと頭を出した。出して――眉を持ち上げた。
 予想に反して、ふたりと美依との距離は全く変化していなかった。彼女たちはこちらへ近寄ってくることもなく、なにやらきょろきょろしている。
「えっと、どっちだっけ?」
「たぶん、こっち……」
 ひとしきり周囲を見回したあと、絹代と亜央は顔を見合わせ、うなずきあった。確信は持てないが、ただ単に道を確かめているだけのようだった。どうやら美依に感づいたわけではないらしい。
 全身を支配していた緊張が、蒸発するように解けていく。そうしてほっとした瞬間、美依は急にひとつの事実に思い至った。
 なにもわざわざ道の真ん中を歩くことはなかったのではないか。
 確かに先ほど渡ってきた広場に遮蔽物はないが、北を丘、南を山に囲まれている。そして月は今、南西の空に浮かんでいる。光源の反対側にあたる南の山のすそには、影が凝っているのだ。山肌に沿って歩けば、闇にまぎれることができたのではないか。律儀に道路を通ることはなかった。
 美依は広めの額に手を当てた。しばらくその体勢のままで考えて、はあ、とひとつため息をついた。
 もう済んでしまったことだと割り切ろう。彼女たちには気づかれなかったのだから、なにも問題はない。
 見ると、大小ふたつの無防備な背中が前進を始めていた。カーブは曲がらず、まっすぐ道路を横断する。さらに、先に広がる簡素な駐車場を突っ切り、一直線上に伸びる小道を行った。こころなしか、歩調が速まっている。
 駐車場に止めてあるライトバンやセダンに隠れながら、美依は急いで彼女たちの跡を追った。まばらではあるが、視界に民家が現れ始めていた。
 高橋絹代の「とりあえず、戻ろ?」という言葉どおり、ふたりはどこかを目指して、こうして休まず歩いてきたのだろう。彼女たちの様子からして、その目的地が近くなってきているに違いない。いよいよ事態が動きはじめる予感がして、美依の心は弾んだ。
 現在のエリアが、F=05からF=04に変わっていた。

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