19
 月は相変わらず皓々と光を放っている。
 広瀬仁(男子14番)はエリアE=8に位置する波止場にいた。生徒の脱出を防ぐためか、岸には船が一隻も繋がれておらず、殺風景な印象だ。のり面が階段状に整備された土手が波止場を囲んでおり、ここからは陸の様子がよく見えない。
 仁は海を眺めていた。油の薄く張った海面が月の光を複雑に跳ね返す。波が立つたび、そのサイケデリックな模様がぐるぐると渦を巻く。その渦に考え事が飲み込まれて、頭の中がからっぽになってくれればと思った。しかし、一番忘れたいことだけが粘り強く居残り、胃をしくしくと痛めつける。
 仁の頭を占めていたのは、古屋祥子を助けられなかったという罪悪感だった。
 古屋祥子が禁止エリアに飛び込んだあと、仁はしばらく段々畑で呆然としていた。祥子の首から流れ出した血が地面にまるく広がるのを、身じろぎもせず凝視していた。そしてとうとう祥子の全身が浸されるというとき、急に思考と事実がぴったり重なった。
 古屋祥子は死んだ、自分はそれを止められなかった、古屋祥子は死んだ、自分はまだ生きている。
 祥子に合わせる顔がなかった。仁は禁止エリアとは逆の方向へ、一目散に駆けた。段々畑をくだり、山間の坂道を上り始めたところまでは覚えているが、そのあとはどこをどう進んでいるのかもわからなくなった。我に返ったのは、土手で足を滑らせてこの波止場に転がり落ちたときだ。それではじめて、無意識的に祥子のデイパックも持ってきていたことに気づいた。ボウガンと藁人形――とうてい使いこなせそうもない物騒な武器が、これでふたつに増えた。
 コンクリートの地面に倒れたまま、体が痛みに蝕まれていくのを感じていた。階段の縁でひじや尻をしたたか打ったこともあるが、それよりも消耗しているのは胃の方だった。
 仁は消化器系が弱く、その上ストレスを溜め込んでしまう性格であるため、普段から胃炎に悩まされていた。ひどいときは口が利けなくなるくらい、立ち上がれなくなるくらいの痛みが一日中続く。今はまだ耐えられないほどではものの、そのひどいときよりさらにひどい胃痛が、近く襲ってくるような気がしてならなかった。プログラムが及ぼす心理的負荷は、仁が今まで感じた中で最も大きいに違いないからだ。
 胃痛の波が少しだけ引くと、海のほとりまで体を運んだ。なにかひとつのもの、できれば規則的な動きをするものを見つめなければならなかった。水面に浮かぶ油の膜が目に入ったので、それに精神を集中させた。
 吹坂遼子(女子13番)によく言われたものだ、「ぼーっとしなさい」と。足りない頭でごちゃごちゃと考えるから体がついていかない、だからいつもぼーっとしときなさいと。幼なじみのそのアドバイスに従って、仁は胃が痛くなり始めたとき、つとめて頭を真っ白にするようにしていた。座禅を組んだだけで雑念を払えれば手っ取り早いのだが、あいにく修行が足りない仁は、“規則的に動くもの”に助けてもらった。家にある振り子時計の振り子や、誰かの貧乏ゆすり、あるいは星のまたたき――それらの単純作業をじっと見つめていると、脳の中もつられて単純化されるような気がするのだ。
 しかし今回ばかりは、いつまでたっても思考は散らかったままだった。人の死に際を見たショックがよほど大きかったのだろう。胃痛もひどくなる一方だ。
 痛くて痛くて、涙が出てきた。みぞおちをさすり、押さえ、叩きもしたが、どうしても痛みは撃退できなかった。
 このままでは胃潰瘍になってしまうかもしれなかった。119番に電話したところで、プログラムの最中に救急車は来てくれない。ただの胃潰瘍だとは言っても、治療しないでいれば命を落とすこともあるのではないだろうか。クラスメイトに殺されるのはもちろんいやだが、不健康が原因で死ぬのだけは勘弁してほしかった。
 急激に胃がぎゅっと収縮した。仁は背を丸め、うめいた。まるで筋肉自慢のスポーツマンに、おにぎりを握るのと同じ要領で胃袋を固められている気分だった。いよいよ“ひどいとき”の痛みに近づいてきた。うめきが叫びに変わる。
 慌てて口を押さえ、仁はそこで自分が口を開いていないことに気づいた。叫び声はたしかに耳に届いたが、どうやら自分の声ではなかったらしい。
 苦痛が幻聴を引き起こしたとでも言うのだろうか。仁はとりあえず辺りを見回した。港とちょうど反対側、土手のすぐ向こうから、茶色い建物が頭を覗かせている。
 デイパックから出した地図を見ると、そこは合同庁舎であると記されていた。区役所の出張所や、消防署、診療所などがひとつの建物の中に収まっているそうだ。ややこしい用事が一箇所で済ませられるなんて便利だな、と仁はぼんやりと思った。
 関心が内から外に向いたおかげで、いくらか胃炎の症状が和らいだようだ。仁はのり面に這いつくばりながら土手を上がり、そろりと顔を出した。
 合同庁舎は5階建てで、レンガ風の壁面に覆われている。1階部分、向かって右端の白いカーテンが少しだけ開いており、そこから光が漏れていた。誰か、人がいるのかもしれない。
 しばらく様子を見ていると、なにか重いものが床に落ちるような、壁にぶつかるような音がかすかに聞こえてきた。続けて、口論するような蛮声。何と言っているのかは聞き取れなかったが、おそらく女の子だ。仁の足りない頭でも、それが人と人との争う物音だと瞬時に理解できた。
 止めなければ。仁はとっさに決心する。目の前で誰かが死ぬのはもうたくさんだ。クラスメイトを見殺しにするなどという過ちは、もう2度と繰り返してはならないのだ。
 緊張感に押しつぶされそうになりながら、仁は足早に合同庁舎へ向かった。ほんの10メートルの距離だったが、焦燥が邪魔をしてとても遠く感じられる。やっとのことで窓に辿り着き、カーテンの隙間からおそるおそる建物の中を覗いた。
 薄暗い床の上、スイッチが入ったままの懐中電灯が転がっていた。どうやら診療所のようだ。ベッドや衝立は真新しく、白を基調にした内装は清潔感にあふれている。部屋はごく整然としたものだった。争った形跡はなく、肝心の人影も見当たらない。
 仁はほっとため息をついた。やはり空耳だったのだ。仁が政府から支給されたものと同じ懐中電灯があるということは、プログラム開始後、ここに誰かが立ち寄ったとみて間違いないだろう。その誰かもきっと去ったあとで、懐中電灯はただの置き忘れだ。とにかく、争いはなかった。自分は見殺しにしなくてすむ。
 緊張の糸がゆるんだことで、忘れかけていた胃の痛みが蘇ってきた。仁は腹を押さえて前屈みになり、窓ガラスに額をもたれた。
 そうすることで、死角になっていた窓の真下の空間が見えた。懐中電灯は部屋の奥を向いているため、そこを照らす光は存在しない。仁はぼんやりとその闇を見つめた。
 そのときだった。闇の底からやにわに1本の白い手が浮かび上がってきたのは。
 仁は仰天して、コンクリート敷きの地面に尻餅をついた。ホラー映画に出てくる怨霊のように血の気がない手だった。幽霊だ、と思った。いささか場違いではあるが、心霊現象に免疫のない仁にとって、それはプログラムに負けず劣らず恐ろしいものだった。
 今見たものが幻覚だったというささやかな望みも、次の瞬間に絶たれた。べたっという湿った音とともに、窓ガラスに白い手のひらが張り付いたのだ。同時に、限界まで見開かれたふたつの目が、窓の下からにゅっと現れた。
 仁は震え上がり、たまらず顔をそむける。しかしあることに気づくと、すぐに視線を戻した。
 窓の向こうで光る双眸には見覚えがあった。今の状況では不気味な眼球としか映らないが、クラスの誰よりもぱっちりしているその目は、彼女の明るさの象徴だ。得体の知れない恐ろしさに泣きたくなりながら、仁はかろうじて彼女の名を呼んだ。
「久枝さん」
 声が届いたのか、久枝布由(女子12番)の黒目がついと仁の坊主頭に落ちた。その顔は硬く強張っている。快活な布由からは想像もつかない、陰りのある表情だった。
 布由はサッシに伸ばしかけていた手を止めると、口をぱくぱくさせはじめた。声は出ていないが、どうやら自分に何かを伝えようとしているらしい。仁にはそれが、に、げ、て、と動いているように見えた。
「逃げて?」
 その言葉は仁を誘起させた。
 言葉の真意は判然としないし、見るかぎり布由に目立った外傷はない。しかし、部屋の中で何かが起こっているのは確かだ。逃げるわけにはいかなかった。ここで逃げれば、自分はふたたび人を殺すことになる。直に手を下すのではないにせよ、罪深い行為には変わりなかった。
 仁は跳ね起き、再び診療所の間際に駆け寄った。布由はしきりに首を振り、にげて、にげてと繰り返す。仁はそれに従わず、窓を開けようと手を掛けた。
 すると突然、布由の体が脱力したように傾いだ。仁は事態についていけず、布由がとっさにカーテンの端を掴むのも、布由の全体重をかけられたカーテンフックが引きちぎれるのも、ただ唖然と見届けていた。布由はそのまま窓の下にある闇に沈んでいった。
 レールに残ったいくつかのフックを支えに、カーテンはだらしなく垂れ下がっている。隙間が複雑な形に広がり、今まで隠れていた部屋の左半分があらわになった。慌てて窓ガラスに顔をくっつけた仁は、しかし布由の安否を確認する前に、部屋の奥にいた人影に目を奪われていた。
 懐中電灯に照らされていたのは福谷佳耶(女子14番)だった。落ち着いた雰囲気のある、布由ととても仲のよい女の子だ。どうやら彼女たちは仁と違い、友人同士で合流できたらしい。――無事に、とはいかなかったようだが。
 佳耶の様子がおかしかった。佳耶は床の上で仰向けに倒れており、前頭部から斜め上に向けて、なにかツノのようなものを生やしている。その姿は異国の伝説に出てきそうな一角獣を思わせた。あのツノはいったい何なのだろう。
 佳耶のそばには人影がうずくまっている。うつむいているが、あの波打ったロングヘアは中原皐月(女子8番)のものだ。
 皐月は佳耶のツノを両手でつかみ、持ち上げたり振ったりを繰り返していた。どうやら引き抜こうとしているらしい。ツノは根が深いようだったが、腰ほどの高さまで持ち上げられると、存外あっさりと佳耶から離れた。支えを失った佳耶は、まるで重い荷物のように床へと落ちた。佳耶の額から血のシャワーが噴いた。
 皐月は手の内にあるツノ――佳耶に埋まっていた部分が今は表れ、それが斧だとわかった――を握り直した。
 仁は混乱した。福谷佳耶は頭に斧を食い込ませていたのだ。生死の別は火を見るよりも明らかだが、なおも自分の目を信じなかった。再び目の前で人が死んだという事実は、仁の許容範囲を大幅に超えるものだった。
 そして、中原皐月の存在もパニック状態に拍車を掛けた。皐月はもともと佳耶たちの仲間だったのだろうか。それとも偶然にここで居合わせたのか? 皐月が斧を抜いたのは、佳耶を助けたかったからだろうか。それとも――使うため?
 仁はあっと声を上げた。部屋の中にはまだ久枝布由がいる。もし斧が使われるとしたら、その餌食になるのは彼女なのではないか。
 中原皐月を疑うことを申し訳なく思いながら、仁は急いで窓を引こうとした。しかし鍵がかけられているのか、窓はてこでも動かない。それでも仁はサッシの出っ張りに手を掛け、力を振り絞った。どうしても開かなかった。
 焦りながら部屋の中を見ると、いつの間にか久枝布由が立ち上がっていた。福谷佳耶の方へ、1歩、2歩、踏み出す。どういうわけか、まるで痺れ薬でも飲まされたような頼りない足つきだ。ついにはバランスを崩し、佳耶に覆い被さった。
 そのときにはもう、中原皐月は動いていた。無駄のない動作で斧が振り下ろされ、難なく布由の後頭部を割る。かつんという意外に高い音があたりに響いた。布由はもう動かなかった。
 仁はなすすべもなくそれを見ていた。さっきはどうしてもうまくいかなかったのに、今になって頭が真っ白になった。
 皐月は斧から手を離し、顔についた血しぶきを手のひらで拭うと、こちらに近づいてきた。親しげに笑みを浮かべ、深く礼をする。それから鍵を開け、窓を開けた。
「こんにちは」
「ここ、こんにちは」
 仁はすっかりと凍りついていたが、ほとんど習性で挨拶を返した。皐月は穏やかに尋ねた。
「どこかで馬渕くんを見なかった?」
 突然の質問は乱れた頭を素通りした。仁はうろたえて、新たな問いを投げた。
「あ、あの、2人、福谷さんと、久枝さんは」
「亡くなったわ」皐月は心もち早口に繰り返した。「どこかで馬渕くんを見なかった?」
 優雅なはずのその声を聞いて、ふいにうすら寒さを覚えた。今の、あるいは以前からなのかもしれないが、中原皐月を取り巻くのは妙な頑なさだった。他人の意見を跳ね返し、どんな影響力をも受け付けない、堅い堅い殻だった。仁は瞬時に、敵わない相手だと悟った。
 皐月がもう一度口を開きかけたとき、仁は右手へ駆け出した。すぐに角をまがり、皐月の死角に入った。
 誰かを助けようという意気込みが、とんでもない驕りだったように感じられた。自分は結局何もできないのだ。否、しなかったのだ。
 中原皐月は佳耶と布由を殺した。そしておそらくは、これからも殺し続けるだろう。自分は中原皐月の命を絶つべきだったのか? 決して不可能ではなかった、こちらにはボウガンという強力な武器があるのだから。
 しかし、しなかった。ただただ恐かった。自分の命かわいさに、逃げ出したのだ。
 仁は闇雲に走った。追っ手がいるのかいないのかよくわからない。ただし、当分足を止める気にはなれそうになかった。振り返る手間さえ惜しんで、ひたすらに道を駆け抜けた。
 ふと、胃の痛みがどこかへいったことに気づいて、仁は少し安心した。

女子14番 福谷佳耶        
女子12番 久枝布由 死亡
【残り30人】