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18
 ついさきほどの騒動が嘘のように静かだった。
 福谷佳耶(女子14番)はスチール製の扉に耳を近づけ、外の雰囲気を探っていた。入り江がひそひそ話をするようにさざめいている以外は、何も聞こえない。人間の声はもちろん、アスファルトと靴底が擦れ合う音もしなかった。
 佳耶は隣でうずくまっている久枝布由(女子12番)に顔を向けた。ここはまったくの暗闇に近かったが、布由が震えていることは感じ取れる。布由の小さな肩を、佳耶はゆっくりとさすった。
 元気で朗らかな布由を縮こまらせた原因は、ほかならぬクラスメイトにあった。耳をつんざかんばかりの絶叫がまだ鼓膜のあたりに滞っている。ほんの数分前の出来事は、布由だけでなく佳耶の胸をも締め付けた。
 親友同士の佳耶と布由は、出発の順番が近かったこともありすんなりと合流を済ませ、灯台前の雑木林に落ち着いた。そして定時放送の直後、灯台の方角に叫び声を聞いたのだった。
 誰かが襲撃に遭ったと考えたのだろう、布由はすぐさまその場から飛び出し、声の主のもとへ走った。被害者の救出、布由の思考はそれ一本に絞られたのだ。無鉄砲な行為ではあったが、佳耶は布由の意志に従った。いざとなればこちらには三叉矛という強力な武器がある。それにもし襲撃者に追いかけられるようなことがあっても、佳耶に支給された“忍者グッズ一式”の撒きびしで、多少の足止めは与えられるだろうと考えていた。
 しかしそこに襲撃者はおらず、代わりに被害者だと思っていた津丸和歌子に攻撃されたのだった。その手から逃れるために林道から湾岸道路に転がり出たふたりは、ぽつんと建っていたこの2階建ての家に立てこもった。外の立て看板にある“貸し別荘・鈴木荘”という名にふさわしく、一時的に隠れるには充分すぎるほど立派な建物だった。
「もうちょっと考えればよかった」
 布由は悔しそうにつぶやき、手にしていた三叉矛をデイパックの中にむりやり押し込んだ。津丸和歌子がそれを凝視していたことに思い至る。この仰々しい武器が恐怖心をあおってしまったのかもしれなかった。
「しょうがないよ。……どうやったって、どうしようもないことはあるんだから」
 佳耶は親友を慰めようと口を開いたが、残念ながら気の利いた言葉は浮かばなかった。そんな自分に落胆し、歯を噛む。親友が思い悩んでいても、自分はおろおろすることしかできないのか。津丸和歌子のことだってそうだ。大人しい女の子の豹変に動転し、思わず布由をひっぱってきてしまったが、はたしてそれは最良の策だったのだろうか。和歌子のためにも、布由のためにも、もっとうまいやり方があったのではないだろうか。自分の機知のなさに、佳耶はほとほとあきれ返った。
「佳耶さん、ごめんね」
 布由の小さな声が聞こえたため、佳耶は首を横に向けた。
「自分勝手でごめんね。迷惑かけてごめんね」
 布由はすっかりと気が弱くなっているらしかった。普段の布由なら、相手の心配を誘わないようにと弱音など絶対に吐かないはずだ。幼稚園に上がる前から家が近所で、その頃から付き合っているためよくわかる。好ましくない兆候だった。
 佳耶は無言で考えた末に、応急処置に思い至った。
「おなかすかない?」
 頭を垂れていた布由はぱっと顔を上げた。暗闇に目が慣れてきたおかげで、布由の大ぶりな口が笑みの形をしているのがわかった。
「おなかと背中がくっつきそう」
「パンでも食べよう。それだけじゃ味気ないから、ジャムとか探してみよっか」
「いいねぇ。マーマレードあるかなぁ」
 親友の気分が少しばかり持ち直したのを感じて、佳耶は安心した。
 布由は食べ盛りの見本といえるほど大飯食らいだった。バスケットボール部の練習帰りにファミレスへ寄り道したときなど、2人前、3人前くらいの料理はぺろりと平らげる。旺盛なサービス精神を抑制することなく、いつも元気に走り回っているため、人一倍カロリーを消費するのだろう。そんな布由が、10時間近くも食事をとらずに平気でいられるとは思えなかった。
 失敬して土足のままフローリングの廊下に上がると、すぐ左手にはドアがあった。その向こうは12畳ほどのリビングダイニングになっており、薄地のカーテンを透して、ぼんやりとした青い月光が部屋を満たしている。
「うわぁ、すごい、小料理屋さんみたい」
 布由は小さく歓声を上げ、三叉矛の柄がはみ出しているデイパックを背負いながら、部屋の中央にあるテーブルへ駆け寄った。見ると、白いレースのテーブルクロスの上に、同じくレース生地の食卓カバーが置かれており、その中に小皿や小鉢が並んでいた。揚げタケノコや白和え、大根かなにかの煮物――どの盛り付けも、料理本に載せて差し支えないくらいに美しいものだった。
「食べる前に政府の人に追い出されちゃったのかなぁ」
「そうかも」
 佳耶は相槌を打ちながら、道路に面している窓の錠をおろした。外の様子を窺ったが、白いガードレールと墨のような色をした海が見えるだけで、人の気配は感じられなかった。
「あ、わかった。作り置きだ。島でプログラムやるって知ったここのオーナーか誰かが、あたしたちのために作り置きしてくれてたんだ」
 布由はひらめいたように声を明るくした。
「食べようと思ってるならやめときなよ。ここ、ちょっとカビ臭いでしょう。ここが使われなくなったのって昨日今日の話じゃないんじゃないかな。傷んでるよ、きっと」
「そうかなぁ」
 布由は食卓カバーをよそにやり、乱切りにされた揚げタケノコをつまみあげた。
「布由ちゃん!」
 佳耶は慌てて布由の手首をつかんだが、すでにタケノコは口に納まったあとだった。
「めちゃくちゃおいしいよ、佳耶さん。香ばしいのにさっぱりして、まるで春の風を凝縮したかのようなさわやかさが……あぁ、なに言ってるのかわかんなくなってきちゃった」
 清々しく感想を述べる布由を見ても、佳耶の不安は晴れなかった。
「おなか壊さないかな」
「平気でしょ。仮にも鉄の胃袋と呼ばれたあたしだよ。そういえば、醗酵しかけてた牛乳飲んでも全然平気だったなぁ」
「ああ……そんなこと言ってたね」
「食中毒の経験もないしなぁ」布由の口ぶりは物欲しそうだった。「ねぇ、佳耶さんいらないなら、あたし全部食べちゃうよ」
 佳耶は黙ったまま、手で譲渡の意思を示した。
「そ? じゃあいただきまぁす」
 布由は椅子に掛けると、箸立てから箸を拝借し、小鉢の煮物に手をつけた。呆気に取られながらそれを見つめる。元気になったのは喜ばしいが、もし具合が悪くなりでもしたら大変だ。佳耶は記憶の隅から島の地図をひっぱり出し、病院の位置を確認した。
「あれ?」
 ふいに目に映りこんだ滑らかな光が、思考を中断した。佳耶ははっとして、布由の手に顔を近づけた。
「布由ちゃん、けがしてるじゃない」
 箸の握られた右手の甲、親指の付け根から薬指のあたりまで、裂傷ができていた。傷いっぱいに湛えられた血が今にもあふれそうだ。
「あぁ、平気。こんなのただのかすり傷だよ。……って、一回言ってみたかったんだよねぇ」
 布由は面白いものを見るような目で傷を眺めた。人の心配を茶化すのは布由の癖だ。人に尽くすことは得意だが、どうやら気を使われるのが苦手らしかった。
「言われるまで忘れてたよ。だからそんなにたいしたことないんじゃないかなぁ」
「たいしたことないようには見えないけど」
 本当に忘れていたのか、痛みに耐えていたのか、布由の態度からは判然としなかった。明らかなのは、それが手当ての必要な傷であるということだ。
「救急箱探してくる」
 布由の肩を軽く叩くと、足早に窓際の収納棚に向かった。
 自分を殴りたくなる。おそらく津丸和歌子に負わされたのだろうが、傷の存在にまったく気づかなかった。布由が辛抱強い性格だということはわかっていたはずだ。幼稚園のときにジャングルジムから落ちて腕を折ったときだって泣かなかったし、高熱があると周りに悟らせないままバスケの試合で大活躍したこともある。わかっていたはずだ。しかし、まるで足りなかった。もっと注意して見ていなければ、布由はいつまでも我慢し続けるのだ。
 そうやって自責の念に駆られながら収納棚の扉を開けようとした、ちょうどそのときだった。唐突にドアノブをひねる音がして、佳耶はびくっと歩を止めた。かすかな潮騒が部屋に入り込み、そよ風が頬に触れた。
 棒立ちしたまま音のした方を見る。対面式のキッチンの向こう、勝手口のドアが開いていた。そこにひょろりと背の高い男が立っていた。布由が息をのむのがわかった。
 真っ先に目を奪われたのは、金色の、いや、ほとんど真っ白と言っていいくらいに脱色された髪だった。佳耶の頭は、その人物が小田春生(男子3番)だと瞬時に認識した。
 前髪の下に冷や汗が噴き出した。とにかく、小田春生はだめだ。不良だと噂され、クラスから孤立しているような男だ、なるべくならかかわらない方がいいに決まっている。だからすぐにでも逃げ出したいのだが、どうしようにも足がすくんで動かなかった。
 春生は無表情でこちらへ近づいてきた。布由の背後からテーブルを覗き込む。何度かうなずくと、椅子に張り付いたままの布由を見下ろした。
「食った」
 言葉の調子があまりに平坦だったので、佳耶はそれが質問だとわからなかった。
「あ、あの、これ作ったの、小田くん?」
 布由は緊張しながら、控えめに頭上の春生を仰いだ。
「うん」
 春生は腹を立てているふうでもなく、素直に返事をした。
 小田春生と料理、というミスマッチな組み合わせに驚きながらも、佳耶は少しだけ胸の中で息をついていた。布由が口にしたのは、たかだか数時間以内に作られたものだったのだ。食中毒を起こす可能性は低くなったと言えるだろう。
「あたし。食べたのあたしだけだから」布由はすまなそうに眉尻をさげた。「ごめんね、勝手に」
「いや、べつにいーよ。けど冷めてただろ」
 気軽い発言とは裏腹に、春生の口調はどんよりと情緒のこもらないものだった。
「あぁ、でもおいしかったよ、すっごく。プロ並の腕だね」
「ふーん、そりゃよかった。じゃーもっと食えば。今からまだ作るしさ」
 そう言うと、春生はゆったりとキッチンへ入っていった。
 春生の手には武器らしいものは見受けられず、代わりに丸い籐のかごが抱えられていた。中には青ネギやサヤエンドウなどの野菜が積まれている。佳耶はこの貸し別荘の裏に広い畑があったことを思い出した。春生がそこから材料を収穫するため家を空けた間に、自分たち招かれざる客が迷い込んできたことになるのだろう。
 キッチンは対面式であるため、その内側を一望することができた。調理台には、政府から支給されたらしいペットボトルが2本、それに細長い刺身包丁やまな板、携帯用のガスコンロなどが整然と並べられている。流し台には、使ったあとの鍋が一箇所に積まれている。きちんと片付けられているところを見ると、春生は意外に几帳面な性格なのかもしれない。
 春生は足元に籐かごを下ろし、そこからニンジンだけを拾い上げた。刺身包丁を布巾で丁寧に拭き、ニンジンをペットボトルの水で洗い、千切りにし始める。ずいぶんと手際がよかった。
 その鮮やかな包丁さばきに魅入られていた佳耶だったが、ふと我にかえると、布由のそばへ滑り寄った。
「小田くん、いつもと感じ違うよねぇ」
 布由は佳耶に額を合わせた。不思議そうな、しかしどこか嬉しそうな表情をしている。
「そうだね」
 佳耶も春生の人当たりのよさに面食らっていた。口ぶりにちぐはぐな感じは残るものの、いつもの近寄りがたさが和らいでいる。そもそも春生と会話すること自体がはじめてだった。
「小田くんは食べないの?」
 布由が気を許したふうに呼びかけると、春生はゆったりとした動作で視線を合わせた。
「うん。別に腹へってないし、もとから作るのが目的だったからな」
「作るのが?」
 佳耶はいぶかった。料理をしている理由は、当然腹ごしらえのためだと思っていたからだ。
「うん。俺さ、料理好きなんだー。家でも俺が炊事係よ。他にもやりたいこといっぱいあるのね。今のうちに全部やっとこうと思って」
「それって、前向きなのか後ろ向きなのかわかんないねぇ」
 布由が屈託なく笑うと、春生はさらりと付け加えた。
「悔い残してたら成仏できねーからな」
 春生の話は、彼自身が生き残れないことを前提にしているようだった。こちらの抱いている印象がことごとく覆されていく。その長躯と、体育の授業のときに発揮されていた運動神経を活かせば、小田春生の優勝も決して夢物語ではないはずだ。にもかかわらず、覇気が感じられない。クラスメイトへの情が厚いようにも見えないが、もしかしたらそれは誤解なのだろうか。
「布由ちゃん、救急箱探してくるね」
 佳耶は春生を気にしつつも、わずかの間布由のもとを離れることにした。なにかおかしな物音がしたときはすぐに駆けつけ、ポケットの中にある手裏剣を投げつけるつもりだった。けがか、気ーつけろよ、という気遣いの声が聞こえたが、警戒をきれいに解くことは、まだできなかった。
 救急箱を見つけ出すのには少し時間がかかった。ありかは玄関の靴箱の上だった。こんなところに置いているとは思わないので、2階にまで捜索範囲を広げてしまったのだ。包帯とガーゼ、消毒液などを選び出して戻った頃には、布由と春生はすっかりと打ち解けていた。
「ちょっとしみるかもしれないけど、我慢してね」
 佳耶は春生を注意深く監視しながら、布由の手をとった。
 思いのほか指先がぐったりとしている。布由の忍耐力でもごまかしきれないほど、傷の影響が強いのかもしれない。佳耶の胸にやりきれない思いが広がった。
 処置が終わると、布由はすぐに手を引っ込め、朗らかな笑顔を佳耶に向けた。
「ありがと」
「もうけがなんかすんなよ。見てるほうが痛いから」
 言いながらガスコンロをいじる春生を一瞥したあと、佳耶はふと、卓上の料理が2品目ほど増えていることに気づいた。
 ひとつはニンジンのサラダ。千切りにされたニンジンが透明の小鉢にふわりと盛られた、見た目にかわいらしい一品だ。
 そしてもうひとつは、透き通った魚の刺身――フグ、だろうか?――だった。きりっと薄く引かれた身が、大皿の上を菊の花のように飾っている。思わずうなりたくなるほどの見事な出来栄えだ。しかし、こんな食材をどこで仕入れたのだろうか。
「これも小田くんが?」
 佳耶はフグ刺しらしきものを指差した。するとこれまで無表情だった春生が、母親に自慢する子どものごとく目を輝かせた。
「うん。はじめて作ったけどいいできだろ。なんか、砂浜に打ち上げられてたのね、そのフグちゃんがさ。こんなとこでお目にかかれるとは思わねーから、ラッキーとか思って即拾いよ。今から白子も焼こうと思ってんだ」
 拾ったというのも妙な話だったが、素人が毒魚を調理し、毒魚と了解しながら人に振舞ったことの方が不穏だった。
「布由ちゃん、お刺身食べるのはちょっと待って」
 佳耶がいましめると、布由は佳耶の方を向き、ぱっと破顔した。
 それのどこに違和感を覚えたのかはわからない。しかし佳耶は、なにかがおかしい、と感じた。不吉な感覚が真っ黒い焦げあとのように胸に湧き出し、内側からじわじわと燃え広がっていく。
「身に毒はないらしーよ」
 探し物をしているのか、春生は背後の棚を振り返りながら言った。その言葉にかぶさるようにして、からんと乾いた音が部屋に響く。見ると、布由の箸がフグ刺しの上、それにテーブルのへりに落ちていた。
「ごめん、ちょっと、手が滑っちゃって。……って、一回、言ってみたかったんだよね」
 布由は相変わらず明るい顔つきをしていたが、少しだけ口の動きがぎこちないように感じた。動悸が次第に激しくなり、佳耶はそれを抑えるために大きく息を吸った。
 ――まさか――とは、思うけど――。
「小田くん。ほかの料理に、フグ、使った?」
 焦燥を表に出さないように気をつけたつもりだったが、語尾が震えてしまった。春生は後ろ姿のまま、こともなげに答えた。
「うん。煮付けにな。フユちゃんが食ったやつ。あれ、大根と肝、入ってたんだ」
 心臓が急激に波打った。
 小鉢に入った煮物は、布由が2番目に手をつけた料理だった。フグの肝臓に毒があることは佳耶も知っている。それを、布由は30分ほど前に体内に入れたのだ。
「……どうして」佳耶は問わずにはいられなかった。「どうしてもっと早く教えてくれなかったの? 小田くん気づいてたんでしょう?」
 春生が勝手口から現れたときの場面を脳裏に浮かべる。春生はテーブルの上を確認していた。あの時点でもう、煮物の器が空になっていたことはわかっていたはずだ。
 春生は棚から焼き網を見つけ出し、ようやくこちらを向いた。
「うん。あれよ。月ナントカ先生と約束したじゃん。殺し合いをするって」
 佳耶はあんぐりと口を開けた。
 たしかに食事をとる気のなかった春生にとって、料理が有害かどうかなんて関係のないことなのかもしれない。こちらの不注意だと言われればそれまでなのかもしれない。しかし――プログラム担当官との約束を守って、クラスメイトを、今まで談笑していた相手を見殺しにするなんて。――とても、納得できそうになかった。
 手の内にあるすべての武器を春生に投げつけたい気分になったが、そんなことをしている暇はなかった。間に合うかどうかはわからないが、とにかく悪いものを排出させなければ。
「布由ちゃん、吐ける?」
「平気平気。そんなのしなくてもぜんぜんだいじょうぶ」
 心の準備はできているとでも言いたそうに、布由はすっきりとした笑みを浮かべた。
 ほんの少し、ろれつが怪しい。きっと手先もしびれてきているのだろう。あるいは、もっと前に自覚症状が表れていたのかもしれなかった。布由のことだ、他人の目からも明らかな異変が起こるまで、いや、そのあとも、追求されない限り白を切り通すつもりだったのだろう。
「いっそのこと、これで一思いにやっちゃうか」
 春生がこれまで食べ物を切っていた包丁を布由に差し向ける。それを聞いた途端、佳耶の視界が真っ赤に染まった。
 ぱん、とビニール袋が破裂したような高音が耳に飛び込み、遅れて、自分が小田春生を平手打ちしたという実感が佳耶の頭に降ってきた。春生が無表情のまま、左の頬に手を当てた。
「布由ちゃんは死なない!」
 佳耶はあらんかぎりの声を絞り上げた。怒りによるものなのか、恐れからくるものなのか、全身が震える。こんな感覚は今まで味わったことがないため、頭の隅の方に少し戸惑っている自分がいた。
 布由は大きな目をまんまるくして、友人の様子を見つめていた。だんだんと眉がくもり、口の端が下がり、目が水を宿し、やがて泣き顔になる。それを見て力を得た佳耶は、布由に飛びついた。
「布由ちゃん、ちょっとだけ走るよ」
 言うが早いか、佳耶は布由の手を握って玄関へ向かった。これ以上こんなところにはいられなかった。
「はー、ぶたれんのってこんな感じだったんだな」
 玄関のドアを閉めるとき、春生の声が隙間から洩れてきた。その口調に苛立ちの色はなく、むしろ初の体験に感心しているようだった。
 屋外に出ると、隣接した駐車場に自転車を見つけた。佳耶は肩にかけていたデイパックを前のかごに放り込み、布由を後ろの荷台に坐らせた。自分もサドルに掛けた。
「病院までとばすよ。お医者さんはいないけど、設備が整ってればなんとかなる。医学書を見れば全然平気」
 親友に言い聞かせるように、自分に言い聞かせるように、佳耶は言葉をつむいだ。
 布由が力のこもらない手を佳耶の胴に巻きつけてくる。離れていってしまわないように、佳耶は布由の左腕に手を添えた。
「あたし、死にたくない」
 不思議なくらいに冴えた、布由の声が耳に届いた。それはいつも見せるような強がりなどではなく、嘘偽りの響きもなかった。幼い頃からずっと封じ込められていた自身への配慮が、ようやく芽を吹いたのだった。
 布由の言葉を噛みしめ、佳耶はペダルに力をこめた。

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