17
『……15番、古屋祥子さん。以上5名です』
 津丸和歌子(女子6番)は午前0時に流れた島内放送を聞き、深い絶望を味わっていた。
 和歌子は島の北東端、灯台と隣接した制御室の内部にいる。たくさんのスイッチやボタンが突出したパネルや、なにかの複雑そうな機械に囲まれ、ずいぶんと長い間を冷たいコンクリートの床にうずくまってすごしていた。正面には灯台に繋がる小さな扉が見えたが、その先を確かめる気にはとてもなれない。建物に入ったとたんに体が重くなり、出入り口の前から動けなくなってしまったのだ。
 そして、プログラム開始以来はじめての放送によって、和歌子はさらに強い重力を感じることになる。
 ――祥子ちゃんが、死んだ。
 親友である古屋祥子の名が告げられた瞬間、和歌子の耳は全ての音を締め出した。和歌子のいるA=10が1時間後に禁止エリアになることも、もはや聞こえてはいなかった。頭の中で繰り返されるのは、ドッペルゲンガーみたい、という言葉だけとなった。
「和歌子は祥子のドッペルゲンガーみたいだね」
 1年経った今でもはっきりと覚えている。そう言ったのは、2年生に進級した頃から親しくなった高橋絹代(女子5番)だ。姿かたちや雰囲気がそっくりだということらしい。そばにいた渡辺千世(女子19番)も賛同し、実は2人は異母姉妹だったりして、と冗談口で後押しした。じゃあ見分ける方法はセクシーホクロのあるなしやね、と古屋祥子は笑った。
 あとになって祥子と、そんなに似てへんよなあ、と顔を見合わせたのだが、はたからは細かな相違点が見えないのかもしれなかった。たしかに共通点は多い。肩にかかる長さの髪や、中肉中背の体型、あまり口数が多くないところなど、探せばいくらでも見つかる。
 似ているのかもしれない、と思った。自分と祥子が似ているのではなく、“自分が祥子に”似ている。
 祥子が本体で自分が幻影だということだ、と和歌子は解釈した。絹代は単に2人が似ていると言いたかっただけで、皮肉をこめたつもりはないのだろう。しかしドッペルゲンガーというたとえ話は、和歌子と祥子の立場を如実に表していた。
 和歌子は存在感が薄かった。何かが飛び抜けて上手でもなければ、下手でもない。成績も、容貌も、人付き合いも、すべてが無難だ。特徴といえるのは、祥子が“セクシーホクロ”と呼んでいた左目尻の泣きぼくろくらいだが、それも印象に残るまでには至らない。
 良く言えば普通、悪く言えば無個性、それが和歌子の自己評価だった。道端の小さな石ころのような存在、それが自分なのだ。いてもいなくても、まわりに影響を与えることはない。ここにいるのかいないのか、自分でもよくわからなくなるくらいだった。
 対して、祥子は目立っていた。クラスで彼女しか使わない関西弁にはインパクトがあった。少し引っ込み思案なところはあるが、人柄はよく、クラスメイトから慕われている。笑顔を見るだけで癒されると言う人も少なくない。
 個性がなかった和歌子は、“人気者に似ている”という特徴を手に入れたのだった。
 自尊心が傷つかなかったと、祥子に嫉妬しなかったといえば嘘になるかもしれない。しかしそれらを遥かに凌ぎ、和歌子を満たしたのは安心感だった。古屋祥子についていけば自分を見失うことはない。いるのかいないのか、などと不安に駆られることもない。祥子は和歌子の存在証明だった。
「うそだよね」
 和歌子は自分を取り囲む無機物たちに問いかけた。自分の声がわずかな余韻を残すばかりで、誰も答えてはくれなかった。
 ――祥子ちゃんが死んだなんて、うそだよね。だって、ドッペルゲンガーはまだ生きてる。
「生きてる?」
 はっとして、和歌子はつぶやいた。
 私、本当に生きてる?
 私、本当は死んでる?
 死んでるの?
 どうなの?
 どうすればいい?
 どうあるべき?
 原物をなくしたあとの模造品が、生きてていいの?
 私は――なに?
「いやああああっ!」
 寒々しい部屋に、和歌子の悲鳴が反響した。
 わからなかった。生きている証を、指針を失ったことで、和歌子は恐慌状態に陥っていた。祥子と出会う前の何もない自分に戻りたくなかった。自分が存在していることを毎日必死に確かめる、そんな空しいことのために神経をすり減らすのはもうごめんだった。
 和歌子は叫んだ。どこからも返ってこない答えを求めるために、自己の存在を主張するように、叫び続けた。
 わからない。何がわからないのかもわからない。どうしてわからないのか。簡単だった。古屋祥子がいないからだ。誰かが和歌子から祥子を奪ったからだ。それが誰なのか見当もつかなかったが、犯人が自分と同じ土を踏んでいることは間違いなかった。
「誰なのっ? 返して! 返してよおおおっ!」
 そうやって叫び続けていた和歌子だったが、背をもたれていた鉄の扉に振動を感じ、ようやく口を閉じた。
「どうしたの? 争ってるならやめよ! ね?」
 激しいノックの音とともに、扉の向こうから女の子の声がした。和歌子は驚き、足元に転がっていたデイパックから銛をつかみ出した。
「あれ……声がしなくなったよ。ひとりなのかな。大丈夫?」
 かすかに緊張の色がにじんでいたが、優しい口調だった。さきほどの悲鳴を心配して駆けつけたのかもしれなかった。
「あたし、久枝布由だよ。佳耶さんも一緒にいるんだけど。あたしたちやる気なんてないから、出てこない?」
 私は、祥子ちゃんじゃないよ。
 私は、祥子ちゃんのニセモノだよ。
 祥子ちゃんに声をかけてるの? 私に声をかけてるの?
「ここ、もう少しで禁止エリアになるっていうから、よかったら一緒に出よう」
 返事をしない和歌子に、扉の向こうの人物は辛抱強く続けた。和歌子は鉛のように重い体を動かして、言われるままに扉を開けた。
 鬱蒼と生い茂る林を背景にして、2人の女の子立っていた。手前の方、ベリーショートの髪とこぼれおちそうなくらいの大きな目には見覚えがある気がしたが、思考が入り乱れている和歌子は、それが久枝布由(女子12番)であると認識できなかった。一歩さがったところにいる福谷佳耶(女子14番)に関しても、長身だという以外はわからなかった。
「よかった、出てきてくれて」
 布由は声に安堵感をにじませ、佳耶に目配せをした。佳耶のほうもにっこりと笑顔を返す。そんな和やかなやり取りが交わされている中、和歌子の視線は、布由の持っているものに吸い寄せられていた。
 布由の背丈と同じくらいの長さがある、大きな矛だった。先端が三叉にわかれ、まるでフォークのような形をしている。これで体を突き刺されたらひとたまりもないだろう。
 殺される、と思った。――つじつまを合わせるために、ドッペルゲンガーを殺しにきたんだ!
「いやああああっ!」
 和歌子は逆手に握っていた銛を頭上に掲げ、布由めがけて振り下ろした。鋭い切っ先が、三叉矛を保持している手の甲をかすめた。布由は大きな目をさらに見開き、よろけるように後ずさりした。
「えっ?」
 和歌子が再び銛を振り下ろすのと同時に、佳耶は布由の二の腕を掴み、すぐ背後に迫る雑木林へ逃げ込んだ。布由は引きずられるようにしてそれに続いた。銛が空を切る。和歌子もぽっかり開いた林の入り口に飛び込み、2人を追った。
 もともと狭い林道には育ちすぎた下生えがはみだしており、何度も足を取られそうになった。敵は順調に障害物を飛び越え、和歌子との差を次第に広げていった。日ごろの運動不足がたたった結果だが、和歌子は自分がなぜうまく走れないのかわからず、焦りが混乱に拍車をかけた。
 道の湾曲した先に2人の姿が消えたときだった。視線の端で左手の茂みが動き、和歌子は反射的にそちらへ銛を投げた。
「うわっ」
 変声期特有のかすれた声がしたかと思うと、茂みから人間の頭が覗いた。癖の強い、その特徴的な髪は、別所亮(男子16番)のものだった。
 枝葉の間から洩れてくる月光が亮を照らす。直後、和歌子の全身に戦慄が走った。亮の顔が、服が、血で真っ赤に染まっていたのだ。
 ――祥子ちゃんの血だ!
 殺したんだ! 祥子ちゃんを!
「祥子ちゃん返してえっ!」
 和歌子は丸腰であることもいとわず、亮に飛び掛った。
 赤い顔面に驚きの表情を貼り付けたまま、亮は地面に転がるようにして襲撃者を避けた。和歌子は無人となった下生えに突っ伏す。ぱきぱきと乾いた音が耳元で聞こえ、折れずに残った枝が腹や肋骨を圧迫した。
 和歌子はすぐさま身を起こそうとした。しかし次の瞬間、衝撃が後頭部に襲い掛かり、再び茂みに沈む。目の奥で星を飛び散らせながら振り返ると、ミートテンダー、肉を叩いて柔らかくするその調理器具を振りかぶっている、亮の姿が認められた。
 和歌子は声を上げながら、がむしゃらに亮に向かっていった。片足につかみかかる。亮は和歌子をほどこうと足を振り動かしながら、和歌子の左側頭部を殴った。何度も何度も殴った。そのたびに和歌子の頭ががくがくと揺れた。
「いやだ」
 和歌子は言葉を洩らした。
 ――なにもないままなんて、ニセモノのままだなんて、いやだ。
「いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ……」
 うわごとのように呟きながら、和歌子は少しずつ頭蓋骨が砕けていくのを知覚していた。

 津丸和歌子が事切れたあとも、亮はその頭を殴り続けた。恐怖の根本を消し去るため、執拗に破壊し続けた。
 亮の精神は擦り切れる寸前だった。不運だったのは、教室での座席が教卓のそばに位置していたことだ。おかげで秋原先生の死体を間近で見るはめになり、おまけに噴出した血をもろに浴びてしまった。その血は全身に染み込み、乾き、こびりついてとれなくなった。そこへきて、クラスメイトからの攻撃だ。心優しかったはずの亮にはもう、慈悲を垂れる余裕など残されていなかった。
 亮の目から涙がとめどなくこぼれ落ちた。顔に付着した赤が溶け出し、まるで血の涙を流しているようだった。

女子6番 津丸和歌子 死亡
【残り32人】