2年生進級を間近に控えた、2月の寒い朝だった。
前日の夕方に降った雨の名残で、空は曇り、グランドには霧が薄く立ち込めていた。そんな中、陸上部が練習に励んでいた。たまたま早くに登校してきた篤彦は、なんとなくその様子を1階の教室から見ていた。
トラックをゆったりと回っている集団から少し離れたところに、彼女がいた。先頭を切っているのか遅れているのかは判断がつかなかったが、まっすぐ正面を見据え、ひたすらに前進していた。
白い息が頬から耳へ滑り、白い背景に溶け込んでいく。それはまるで夢の中のような、不思議な光景だった。
おそらく一目惚れだったのだと思う。
篤彦をとらえたのは、すっと鼻梁の通った意志の強そうな横顔だった。それがなんとなく印象に残り、なんとなく頭から離れなかった。それから、陸上部の練習風景に遭遇すると、なんとなく彼女の姿を捜すようになった。そこに彼女がいれば嬉しくなり、いなければがっかりした。
なんとなく。ただそれだけのことだった。無理に早起きしたり、下校時刻を遅らせたり、そういうふうに自分の生活形態を変えるほど熱心に追いかけはしなかった。近付くことはしなかったし、また近付きたいとも思わなかった。
間もなく2年生になり、はからずも彼女とクラスが一緒になった。それでようやく、彼女が“伊藤ほのか”という名前で、行きつけの歯科医院の娘だと知った。
その時から篤彦は彼女を避けるようになった。歯医者を替え、席が隣り合っても決して目を合わさなかった。思いが募るにつれ、だんだんと彼女との距離を開けていった。
「いざって時が来たの」
ほのかの言葉を、篤彦は信じられない思いで聞いていた。
「……それって」
気付いたときには、うめきに似た声が口から洩れていた。篤彦は頬が引きつっているのを感じながら、ほのかに疑問を投げかけた。
「それって、友達を疑ってるってことか?」
「友達だからこそだよ」ほのかが篤彦に向き直る。「私は皐月をよく知ってる。あの子、馬渕のためならなんでもやるんだから」
「馬渕?」
篤彦は馬渕謙次(男子17番)の整った顔を思い浮かべた。非の打ち所がない、それでいて気さくな謙次のことは、おそらくクラスの誰もが一目置いているだろう。――その馬渕が、なんだって?
いつの間にか、皐月が表の通りまで歩を進めている。篤彦を間にはさみ、皐月とほのかは相対した。
「馬渕くんは生き残らなきゃいけない」
ほのかは語気を強め、皐月に鋭い視線をくれた。
「でしょ? 今、皐月が考えてること」
見ると、皐月は落ち着いた表情をして、かすかに目を伏せていた。
「ほのかの前では隠し事なんて無意味ね」
「あんたをちょっと知ってればわかることだよ。あんたの話題にのぼるのはほとんど馬渕だから」
そういえば、と篤彦は思った。中原皐月が馬渕謙次を追いかけて同じ剣道部に入ったという話は聞いたことがある。ただ、それは皐月に限ったことではなかった。謙次が入部してからというもの、剣道部の部員数は飛躍的に増加したという。
「私、誰にも言うつもりはなかったの。馬渕くんのために死んでください、なんて言ったら、馬渕くんが悪者になっちゃうもの」
皐月は穏やかに言った。
篤彦は悪い夢を見ているような気分で皐月を眺めた。つまり、目の前にいるこの控えめそうな女は、心に思う男をプログラムの優勝者に仕立てるためにクラスメイトを殺してまわると、そういうことなのだろうか――?
「どこかで馬渕くんを見なかった?」
皐月に尋ねられ、篤彦は反射的に首を振った。事実そうだった。実際に馬渕謙次と会ったなら、土下座してでも仲間にしてもらっているだろう。
「そう」
皐月はうなずくと、突然手に持っていた一本鞭でアスファルトの地面を打ち付けた。激しい音が鳴り、弾かれた小石が篤彦の顔にまで飛んでくる。篤彦は状況をのみ込めないまま、ただ呆気にとられていた。
その時、背後から皐月へ、銀色の小さなものが高速で向かっていくのが見えた。ほのかがスリングショットで鉛玉を放ったのだ。狙いははずれ、それは皐月の斜め後ろ、民家の漆喰塗りの壁にめり込んだ。
「左右田、こういうことだから。加勢するならする、逃げるなら逃げる。さっさと決めて」
ほのかはポケットから新しい弾を取り出し、すかさず発砲した。次も皐月には当たらなかった。
篤彦は振り返り、ほのかが郵便ポストの陰に身を隠すのを呆然と見ていた。――攻撃開始。不穏な言葉が頭によぎる。友達同士である2人の念頭には、話し合うという選択が端からない。どうしてこんなことに――。
耳元で風を切る音がして、右のえらから頬にかけて激痛が走った。頭蓋骨が大きく揺れ、視界が回る。低いうめき声を上げるとともに、篤彦はアスファルトの地面に転がった。
無意識に両手で頬を押さえると、皮膚が破れ、肉がぱっくりと裂けていることがわかった。指の隙間からぬるぬるとした液体が溢れ、伝っていくのを感じる。――なんだ、これは?
「左右田!」
意識が遠くなりそうだったが、その声のおかげでなんとか繋ぎ止めることができた。強くまばたきをして焦点をあわせると、黒い一本鞭が目に留まった。そこでようやく、あれで打たれたのだと気付く。
皐月がほのか目掛けて鞭を振っていた。ほのかは飛び退いてそれを回避し、篤彦とは反対の方向に走り出した。皐月はそれを追った。
ほのかが角を左に曲がり、商店の壁から顔を出してスリングショットを撃つ。続けて2発。うち1発が二の腕をわずかにかすったようだったが、皐月は動じることなく走る。2人が角を曲がり、その姿は見えなくなる。
篤彦はよろめきながら身を起こし、手斧を手に2人の跡を追った。地面を蹴るたびに振動が伝わり、頬に刺すような痛みが跳ねたが、気にしている余裕はなかった。
鞭は危ない、それは身をもって実感した。スリングショットはどうだ? 壁に穴が開いたほどなので、それなりに威力はあるのかもしれない。しかし、ほのかは武器にまだ慣れていない様子だ。その上走りながらでは、命中率は更に下がるだろう。あの俊足を活かせば振り切れるに違いないが、負けん気の強いほのかのことだ、きっと逃げないだろう。形勢不利だ。
角を曲がった頃にはもう息が上がっていた。立ち止まった途端、めまいと吐き気に襲われる。頬から流れる血が口に入ったが、それを拭う暇もないまま、篤彦はがっくりと膝を折った。
細い路地の奥で、ほのかが電柱の陰からスリングショットを撃っている。しかしまたしても当たらず、筋疲労を起こしたのか手を揉んだ。その間にも皐月は迫り、今にも鞭を動かそうとしていた。
次の瞬間だった。ほのかはスタートダッシュをするように体勢を低くし、皐月の腹に体当たりした。鞭が空を切り、皐月は仰向けに押し倒された。
ほのかは皐月に馬乗りになり、右手で皐月の右腕を押さえつけ、左手で鞭を引き剥がしにかかった。皐月は抵抗することなく、しかし鞭のグリップをしっかりと握ったまま、哀願した。
「ほのか、お願い」
「お願いだから死んで、って?」
ほのかは鞭を奪い取ろうと、皐月の腕を締め上げた。皐月はいやいやをするように頭を震わせた。
「優勝に一番ふさわしいのは馬渕くんよ。ほのかもそう思うでしょう?」
皐月の声は、いっそう悲哀の色を含んだ。
「自分の価値観を人に押し付けないで」
「よく考えてみて。きっと納得できるはずよ!」
皐月は声を張り上げ、ノーマークだった左手でほのかの背に負われているデイパックを掴み、外側に勢いよく引いた。ほのかはバランスを崩し、引かれた方向に転がった。
まずい、と思った頃には、もう遅かった。枷から解放された皐月は素早く立ち上がり、鞭を振り上げた。びゅん、と、空間をまっぷたつに切り裂くような鋭い音が、篤彦の耳を突いた。
身を翻そうとしたほのかの胸部を、鞭の強烈な一撃がとらえる。短い悲鳴を上げ、ほのかは地面に沈み込んだ。ポケットから無数の鉄球がこぼれ落ち、ころころと広がっていく。
「伊藤!」
急きたてられたように、篤彦はほのかの元へ駆け出した。
皐月はもう1回、更に1回、ほのかを打った。そのたびにほのかの身体がびくんと跳ね上がったが、もう叫び声は上がらなかった。
「やめろ!」
篤彦は半ば喚きながら、ほのかを痛めつける皐月を止めようとした。もうすぐ手が届くかという距離まで近づき――しかし皐月はそこでさっと振り向き、両手に保持した鞭を横なぎに払った。それが左脇腹に命中し、篤彦はすさまじい痛みに見舞われながら横様に吹っ飛んだ。コンクリートの塀に身体をしたたか打ち、地面に崩れ落ちた。
脇腹に新しくできた傷が激しく脈打ち、それが全身に伝わって筋肉を弛緩させる。篤彦はぐったりとして、長く、力なく息を吐いた。
目の前にほのかの横顔があった。
ほのかは夜空を見ていた。あの冬、グランドで走っていたときと同様に、まっすぐ正面を見据えている。長い睫毛が月明かりを吸い込んで、ぼんやりと光っていた。――綺麗だった。
そう、間違いなく一目惚れだった。この凛とした美しさに目を奪われ、意識するようになったのだ。
綺麗なままでいてほしかった。幻滅したくなかった。――ミヤビを捨てた姉のように。
姉もミヤビに一目惚れした。ミヤビの愛らしい外見にとらわれていた。そして“世話”という現実にぶつかり、幻滅したのだ。
自分もそうなるのではないかと思った。一目見た瞬間、自分の中で伊藤ほのかは美化され、理想化された。彼女の中身を知り、現実に引き戻されてしまいたくなかった。だからなるべく接点をなくし、性格の方には目を向けないようにしていた。
藤井雪路を殴ったときもそうだった。噂によってほのかの立場が危うくなることより、理想像が傷つけられることを恐れ、噂をなかったことにしようとした。
そんな自分が嫌だった。ほのかの幻想にがんじがらめになった自分が、都合の悪いことから目をそむけようとする自分が、とても嫌だった。想えば想うほど自分が嫌なやつになっていくようで、いつしかほのかを見つめることさえ苦痛になっていた。
――ああ、情けねえ。
涙がにじみ、ほのかのすっきりとした輪郭がぼやける。篤彦は水分を引っこめるため、まぶたを閉じた。
ふと、気付いた。
倒れてからしばらくの時間が経つが、ほのかは1度もまばたきをしていなかった。目だけではない。口も、眉も、鼻も、何も動かさなかった。
見ると、えんじ色のネクタイの下、白いカッターシャツがネクタイと同じ色に染まっていた。一本鞭で肌を切り裂かれてしまったのだ。そこからあふれたその液体は、背中に敷かれたデイパックを伝い、後から後からアスファルトに染み込んでいくのだった。
「伊藤……」
胸がどうしようもなく締め付けられていることに、篤彦は気付いた。動悸がして、足元から震えが這い上がってくる。原因が傷だけでないことはすぐにわかった。
――好きなのだ。
たしかに幻滅したのかもしれない。クラスメイトを殺すと宣言した彼女は、理想像とはかけ離れているのかもしれない。しかし、やっぱり、好きなものは好きなのだ。
「あああああああっ!」
篤彦は跳ねるようにして起き上がり、身を屈めていた皐月に向かって手斧を振り下ろした。皐月は驚いた様子で目を見開き、しかしすぐに身を引いた。手斧が皐月の右肩をかすめ、ブレザーを裂いた。
皐月はさらに後方へ跳躍し、同時に鞭をしなわせた。篤彦はそれを手斧の柄で辛くも弾く。篤彦は間合いを詰めながら、手斧を掲げた。
その時だ。鞭を握っているのとは反対の手に、スリングショットの存在を認めた。皐月は鞭から手を離し、ポケットから鉛玉を取り出した。そして篤彦が手斧を振り下ろすより早く、スリングショットの狙いを定めた。
直後、額の中央に重い衝撃を受け、篤彦の視界は急速に暗転した。
皐月は乱れた呼吸を整えながら、額に穴の開いた左右田篤彦を見下ろしていた。スリングショットで放った鉛玉が、頭蓋骨を突き抜け、頭の中で停止したのだった。
手斧で切りつけられた右肩から血がぽたぽたと滴っていたが、どうやら傷は浅いようだった。
「大丈夫……。馬渕くんは優勝できる……」
皐月は自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
スリングショットをポケットに入れ、鞭を拾い上げ、篤彦の手から手斧をはずす。荷物があまりかさばってもいけないので、ほのかのデイパックからペットボトル1本とパンの包み2個だけを取り出し、貰い受けることにした。
ほのかを引きずりながら移動させ、篤彦の隣に横たえる。曲がっているほのかの手を伸ばし、広がっている篤彦の足を閉じ、服装の乱れを整える。ふたりの目を閉じさせ、手を合わせる。それが皐月にできる精一杯の弔いだった。
この島のどこかにいる馬渕謙次のことを思い、皐月は先を急いだ。
女子2番 伊藤ほのか
男子9番 左右田篤彦 死亡
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