左右田篤彦(男子9番)は魚屋と商店に挟まれた細い路地から顔を出し、表通りの様子を窺った。
気配はしない。何も動かない。誰もいない。――よし。
篤彦は表通りへ出て、商店の正面を駆け抜け、隣り合わせている酒屋の前も通り過ぎ、その先の角を目前にして立ち止まった。壁に背をくっつけ、顔だけを後ろに向け、そこから裏路地を覗き込んだ。
連なった軒に月光が遮られているため、そこには深い闇が居座っている。目を凝らしても何も見えないので、耳に神経を集中させた。1分経っても、2分経っても、人の息遣いは聞こえなかった。
素早く路地に入ると、酒屋の壁際に積み上げられているビールケースに気付いた。篤彦はその裏へ回り込み、アスファルトの地面に腰を沈めた。
この島には、西と東の2箇所にまとまった集落がある。西は学校や田畑などの開けた場所が多くのどかな雰囲気、東は商店街を含んでおり、住民が追い出される前はそれなりに活気があったであろうことが想像できた。篤彦がいるのは東の方で、地図上では、E=7、8からF=7、8の4エリアという比較的広範囲に渡る。
膝に顔をうずめると、ひとりのクラスメイトの顔が頭をよぎった。このプログラム中に一番会いたくない人物だ。篤彦は明るく社交的な性格だったが、ある理由により、その女子生徒とだけは親しくするのを避けていたのだった。
――もしあいつと出くわしたら、俺は、どうする、かな――。
寝癖のついた頭をぶんぶんと振る。危なかった。もう少しのところで睡魔に飲み込まれるところだった。
幾度となく落ち着き先を変えていることが、少なからず身体に影響を及ぼしているのだろう。しばらく一箇所に留まっていると、段々とそこが隠れ場所に適していないように思えてきて、そのたびに堅固な要塞を求めて移動した。しかし中に先客がいるかもしれないという恐怖感から、建物にはどうしても入る気になれなかった。
移動する距離は毎回5m前後とわずかなものだったが、隠れては移動し、移動しては不安に駆られを繰り返したため、篤彦はすっかり疲弊していた。
「ミヤビ、会いたいよ」
篤彦はほとんど泣きそうになりながら、“彼女”のことを思った。透き通った瞳、血色のいい肌、小首をかしげる愛らしい仕草。友達よりも、親兄弟よりも、疲れを癒してくれるのは彼女なのだ。
ブレザーの胸ポケットから1枚の写真を取り出した。そこには青い柴の上で愛嬌を振りまいている、“ミニブタ”のミヤビの姿があった。
2年ほど前に姉がペットショップで一目惚れし、衝動的に買ってきたのがはじまりだ。元来飽き性の姉は、世話のわずらわしさが想像以上だったという理由で、数日後にはその役を篤彦に押し付けることになる。貧乏くじを引かされたという思いで面倒を見始めたのだが、すぐにミヤビの魅力に取り付かれ、やがて生活が彼女を中心に回るようになった。
最近になって、ほんの戯れに“お手”を教えてみると、彼女はいともたやすく習得した。次に仕込んだ“お座り”もあと一歩で覚えるところだった。そんなとき、このプログラムに巻き込まれてしまった。
――まだミヤビにやり残したことがいっぱいある。それに、飯は他のやつに任せられない。ミヤビの胃袋には底がないからな。俺が制限してやらないと、ぶくぶく太るばっかりだ。
闇の中に浮かんでいたミヤビの顔が消え、篤彦ははたと気付いた。
暗いとはいえ、路地の奥から見ると篤彦の姿は丸見えだ。表通りから死角に入ることしか考えていなかったため、そこまで頭が回らなかったのだ。
篤彦は舌打ちした。眠気だ、眠気のせいだ。意識がしっかりしていたら、わざわざ危険な場所に引っ越すこともなかったのに。
安心するために居場所を探し、それが原因で疲労が溜まり、安全性の見極めに失敗する。そんな悪循環を断ち切ろうと、篤彦は奮起して立ち上がった。
やはり建物に入ったほうがいいのかと、酒屋の壁に張り付きながら思う。たとえば向かいの郵便局なんかはどうだろうか。扉はガラス張りだが、そこにはポスターが所狭しと貼り付けられており、中の様子は窺いにくい。壁は重厚なレンガ造りだ。“要塞”としては持ってこいではないだろうか。
そうやって隠れ家の品定めに熱中している間、自らに近づく者があることを篤彦は気づけなかった。
「誰?」
唐突にそんな声がしたかと思うと、気づいた頃には、レンガの壁の向こうに人間の半身が覗いていた。篤彦はぎょっとしてそちらを見――直後、感電したような衝撃を全身に受けた。
華奢な身体。顎までの長さに切りそろえられたショートボブ。眉上1センチを横切る前髪が、理知的な顔をよりいっそう際立たせている。それは篤彦が“一番会いたくない”と思っていたクラスメイト、伊藤ほのか(女子2番)だった。
ほのかは左手をこちらに向けて突っ張っていた。二股の金具に太いゴムひもが取り付けられた器具を持っている。反対の手で顎のあたりまで張られていたゴムが緩み、腕が下ろされたときにようやく、それをスリングショットだと認識した。いわゆるパチンコだ。
「……ああ、左右田か」
日ごろ愛想のいい篤彦を無害ととったのか、ほのかは陰から抜け出て、こちらに全身をさらした。5メートルほどの距離を隔て、篤彦とほのかは対峙する形になった。
篤彦は舌打ちした。さっきの場所から動いていなければ見つかることもなかったのだ。――その上、よりにもよって相手がこいつだとは。
逃げ出したい衝動に駆られたが、ほのかは陸上部のエーススプリンターであるため、安易に背中を見せるわけにもいかなかった。仕方ない。自分から動けないならば、相手にどこかへ行ってもらうしかない。
篤彦は1歩踏み出し、支給武器である手斧を突きつけた。
「来るな」
こちらへ近付こうとしていたほのかは足を止め、きれいに手入れされた眉をひそめた。
「私はあんたとやりあう気はないよ」
――くそ、お前、斧が見えないのか?
「消えろっ」
手斧を小刻みに振ってその存在を誇示したが、ほのかは少したじろいだだけで、この場から立ち去ろうとはしない。
「あんた、素手の方が得意なんじゃないの? 結構すごかったよね、藤井にやったとき」
緊張しているのか、ほのかはどこかぎこちない口調で、半年前の話を持ち出した。
篤彦は1度だけ、友人の藤井雪路(男子15番)を殴ったことがある。結果、雪路は歯を2本欠損し、篤彦は両親にこっぴどく叱られた。以来、雪路の歯は欠けたままだ。見舞金を渡したはずなのだが、それがどこに消えてしまったのか雪路は言わなかった。
篤彦は右手で手斧を構えたまま、「消えろ」とだけ言った。
「ねえ、とりあえず、それ下ろして。話がしたいの」
篤彦は無言で首を振った。ほのかは食い下がった。
「じゃあ、そのままでいいから、聞いて」
くっきりとした二重まぶたの目はきわめて真剣だ。篤彦はすっかり気圧されていたが、ひたすら拒絶の意を示した。ほのかはかまわずに続ける。
「私と組まない?」
「…………」
もしそう申し出たのが伊藤ほのかでなかったら、快諾していたかもしれない。篤彦は疲れていた。とにかく、誰かによりかかりたい気分だった。
「そんなこと……」篤彦は後ろ髪を引かれる思いで、喉から声を引っ張り出す。「できるわけ、ない」
「どうして?」
「どうしてって……」
篤彦は口をつぐんだ。
ほのかの視線は揺るぎなく、心の中まで見透かされてしまいそうだった。どうすれば頑強な相手を納得させられるかと、思いつく口実をひとつひとつ吟味する。
「……1人しか生き残れねえんだ。最初からチームなんか組まない方がいい」
するとほのかは、間髪をいれず切り返した。
「2人でいれば寝るときは見張りを立てられて安全だし、孤独感も和らぐ。それに、効率的に人数を減らせる」
その言葉を理解するまでに、多少の時間を要した。
――効率的に?
「人数を減らせる?」
相手の言い分を突っぱねるつもりでいたのだが、思わず問い返してしまう。
「もちろん、今すぐ積極的に動く必要はないよ。だけどいざって時は、やっぱりやらなきゃいけない。その“いざ”が来た時、2人で協力した方が確実でしょ」
ほのかはさも当然というふうに言った。
確かにそうかもしれない。複数で行動していた方が、より優勝に近付くことができるのだろう。自分もミヤビに会うために生き残りたいし、そのために他のクラスメイトを犠牲にするのはやむを得ないと思っている。しかし、それをほのかの口から聞きたくはなかった。
「それは、お互いに信用してないと成立しない話だろ」
仲間になるつもりはさらさらない、という意味合いを匂わせるつもりで、篤彦は冷淡な態度をつくろった。
「私はあんたのこと疑ってないよ。それにもう、信用は得られてると思ってるけど」
「は? どういう意味だ?」
篤彦が苛立ちながら問い返すと、これまで引き締まっていたほのかの口元が、ふいにほころんだ。
「好きなんでしょ、私のこと」
「なんで……」知ってるんだ、と言いかけて、慌てて訂正する。「なにわけわかんねえこと言ってんだよ」
「あのケンカのあと、藤井が私に言いにきたの」
ほのかは再び藤井雪路の名前を出した。
「あれはおれが全面的に悪かったから、左右田のこと嫌わないでやってね、だって」
とぼけた表情を浮かべながら雪路の口調を真似る。意外に似ていたので面食らった。
「原因も聞いたよ。あれ、私のためだったんだってね? 私が援交してるって噂話、撤回させるためだって」
篤彦の頭に友人のしたり顔が呼び起こされた。
口の端の痣が薄くなりはじめた頃、雪路は「おれが手を打っといたから、多分お前の好感度は下がらないよ」と得意気に笑んだのだった。その時は意味がわからなかったが、雪路の言う“手”とは、おそらく今ほのかが話したことなのだろう。本人に悪評のことまで喋ってしまうあたりが、いかにも無神経な雪路らしかった。
1人を黙らせたところでやはり人の口に戸は立てられないもので、あのあと噂は瞬く間に広まった。しかし、ほのかが歯科医院長の娘で金には困っていないこと、それに休む暇もなく陸上に打ち込んでいることはクラスの誰もが知っていたので、何日も経たないうちに終息した。ほのか自身も気にしている様子はなかった。
「別にあれは、お前のためじゃねえよ」
篤彦は動揺して、目をそむけた。
ほのかへの気持ちは誰にも打ち明けていない。これからも隠し通すつもりだった。雪路がどこで勘付いたのかわからないが、自分の知らないところで気持ちが一人歩きしていたことを知り、無性に苦々しくなった。
ほのかは顔全体に疑問符を浮かべると、やがて、ああ、とつぶやいた。
「どうもコミュニケーションがうまくとれないと思ったら、あんたと私、まともに話したのって今がはじめてなんだよね。左右田って誰とでも仲良くしてるから、私も喋ってた気でいたけど。もしかして、私のこと避けてた?」
あからさまに逃げ回っていようが、ほとんど言葉を交わしたことがなかろうが、どうやら相手はまったく意に介していなかったらしい。近寄らなかったのは自分の意思だが、篤彦は落胆を禁じ得なかった。
軽く溜め息をつき、そこでようやく手斧を下ろす。それを見届けて安堵の表情を浮かべたほのかは、次の瞬間、さっと顔色を変えた。そして突然篤彦に駆け寄り、腕を乱暴につかんだ。
「なんだよっ」
その手を振り払うと、ほのかは唇の前で人差し指を立てた。「誰か来た」
ぎくりとした篤彦の耳に、自転車をこぐような音が届いた。背後、裏路地の奥からそれは聞こえてくる。
ほのかは表通りに面した酒屋の入り口まで、篤彦を引きずり込もうとした。今度は素直に応じるつもりだったのだが、路地の奥を振り向くと、ほとんど意図しないままに歩が止まった。ほのかは見限ったように手を離し、1人で身を潜めた。
闇の中に浮かぶのは、自転車に乗った女子生徒のシルエットだ。向こうもこちらに気付いたらしく、ブレーキをかけて走行を中断した。
「私、中原よ。あなたは左右田くん?」
シルエットはふたつに結んだ長い髪を揺らしながら会釈した。
「ああ、そうだけど」
篤彦は胸をなで下ろしながら、隠れているほのかを見やった。中原皐月(女子8番)と伊藤ほのかは仲が良かったと記憶している。
「伊藤、中原だよ」
「あっ」
何か言いたそうな顔をして、ほのかが短く首を振る。
「ほのか? ほのかもいるの?」
皐月は洗練された動作で自転車を降りると、篤彦の方へ歩み寄ってきた。こちらに近付くにつれ、姿かたちが鮮明になっていく。その手には、罪人への拷問にでも使うような太い一本鞭が握られていた。数本の革紐で編み上げられた穂が緩やかな曲線を描き、地面すれすれに垂れ下がっている。
呼びかけに応じる気配がないので、もう一度ほのかに呼びかけた。
「おい、中原だって。どうしたんだ?」
ほのかは酒屋のガラス扉に張り付いたまま、正面を見据えている。やがて大きく深呼吸をすると、ぱっと篤彦に視線を合わせた。
「左右田、私に協力してくれる気がないんだったら、今すぐどこかへ行って。危ないから」
「は?」篤彦は眉間をしかめた。「どういうことだよ」
ほのかはきっぱりと言った。
「いざって時が来たの」
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