12
 黒い監視船の浮かぶ内海を左手に、切り立った岩山を右手に臨む車両用道路を、小柄な3人組が歩いていた。
 岩壁によって流れを乱された潮風が、ビル風よろしく3人に襲い掛かる。平時は凪いでいるが、時折突発的に強く吹くことがあり、そのときは足を踏ん張らなければ飛ばされてしまいそうだった。
「どうしたんだよ、いったい」
 畠山智宏(男子12番)は、しばらく続いていた沈黙を破った。風にあおられ視界を遮る長い前髪の隙間で、横田翼(男子19番)がぴょこんと振り返るのが見えた。
「なにが?」
「倫香に聞いたんだよ」
 智宏はつとめて優しく言った。右隣を大人しく歩いていた根尾倫香(女子10番)は、自分の名前を呼ばれた途端、びくんと身体を震わせた。
「倫香、一言も喋ってないじゃないか。どうしたんだ?」
 智宏は言葉に棘が出ないように注意し、囁いた。
「そういやそうだね。いつもうるさい人が静かだと、なんか空気おかしいね」
 翼は後ろざまに歩きながら、軽く染めている短髪の下、やや太い眉を持ち上げた。
 倫香は声が甲高いため、普通に会話するだけでも賑やかに感じるし、少しヒステリックなところもある――というより、自分が話題の蚊帳の外に置かれるとわめき散らしたりもするが、こいつに言明されるほどうるさくはない、と智宏は思った。
 2人の男から注目されていることに気付いたはずだが、倫香は依然うつむいたまま、その愛くるしい顔を強張らせている。質問に答えることも、こちらに視線を向けることもしない。
「なあ、倫香……」
 智宏が倫香の前に立ちはだかろうとするのを、翼は言葉で遮った。
「はっつぁん、もういいじゃん。倫香は恐いんだよ。俺だって恐いよ。その証拠に、俺もだいぶ無口っしょ」
 たしかに普段とくらべると口数が少ないようだが、騒がしいことには変わりなかった。それでも彼なりに気を遣っているようで、声のトーンは低い。
「俺と倫香とはっつぁんが揃ってるってだけで、とりあえず良しとしようよ」
 翼の口調はきわめて楽観的だった。
 こうして仲の良い3人が集まることができたのは、ひとえに翼の功績だ。出席番号が離れていたため、智宏は翼との合流を諦めていたのだが、彼は玄関に飾ってあった観葉植物の陰から倫香を引き止め、さらに智宏を待ち伏せていたのだ。薄暗がりと小柄な体格がうまい具合に働いて、誰にも気付かれることなく隠れていられたのだという。いつもそわそわして落ち着きがないとばかり思っていた翼が、何十分間もじっとしていた。同じサッカー部のチームメイトでもあるだけに、それは智宏にとってなかなか感慨深いことだった。
 そして今もまた、翼の言葉に心を打たれている。――そう、友人と合流できただけで、自分たちは充分に恵まれている。クラスメイトの多くはきっと、この暗闇の中をひとりで過ごしているのだ。
「そうだな。それもそうだ。……なんか俺、せせこましいな。もっとゆとりを持つようにするよ」
「なに? せせこましいって」
「……なんでもいいよ」
 感動の余韻に浸る暇もなく、智宏は強制的に話題を終えた。おじいちゃん子である智宏の言い回しには聞きなれないものが多いらしく、翼はその意味をよく尋ねた。しかしすぐ忘れてしまうので、近頃では適当にあしらうようにしているのだ。
 智宏は呆れ顔で翼に視線をくれながら、微苦笑した。
 ――どうも実感が曖昧になってきていかんな。
 この期に及んで何を、と自分でも思うが、本当はこれはプログラムではなくて、秋原先生も死んでいなくて、誰かが仕組んだ悪戯なのではないだろうか。そのような考えを捨てきれないでいるほど、智宏の心は平穏だった。きっと翼と倫香が傍にいることで気が大きくなっているのだ。
 いつの間にか風は止んでいた。しかし倫香の乱れた肩までの髪は、しばらくしても整えられることはなかった。
 3人は学校を出てから針路を北にとり、1時間近くを大きな道路に沿って歩いてきた。特に目標を定めないまま、とにかく小学校から離れることを先決としたのだ。地図によれば現在地はB=4エリアで、もう少し行くと一筋だった道路がふたつに分かれる。智宏としては、潮風の吹く沿岸をそのまま進むよりも、内陸に向かう横道に入って休憩したいところだった。
 これからのことを考えながら何気なく荷物を持ち直すと、翼がそれに気付いて立ち止まった。
「はっつぁん、それ重たいんじゃないの?」
 翼の視線の先にあったのは、智宏の肩からたすきがけにされているクーラーボックスだった。これはデイパックと併せて兵士から手渡されたものだ。おそらく武器なのだろうとは予想はできたが、その中身を確かめたときの脱力感といったら、とても言葉では言い表せない。
 クーラーボックスの中にいたのは、なんとフグだった。生きたフグが、5分目くらいまで張られた水を窮屈そうに行き来しているのだ。底にはビニール袋に包まれた紙が沈んでおり、はちきれそうなほどに身体を膨らませたフグの写真と、簡単な説明文が載っていた。

 マフグ(真河豚)
 皮膚に刺がなくなめらかなことから、ナメラフグとも呼ばれる。
 横腹に黄色い線が走り、胸びれの後ろに大きな黒斑がある。
 卵巣、肝臓は猛毒、皮、腸は強毒、肉、精巣は無毒。

「俺らで食べる?」
 翼は平然と言った。
「なにを言うんだ。これは武器なんだぞ。武器を武器として使わなくてどうする」
 智宏の口調はほとんど投げやりめいていた。
「使うにしたって、どうやって食べさせるかが問題だね。クーラーボックスで頭殴った方がまだ早いよ」
「だな……」
 自分に支給された武器の使いにくさに気付かされ、急に何もかもが馬鹿らしくなってきた。――こんなに重いものをここまで運んでくるなんて、俺は何をそんなにむきになってたんだ?
 クーラーボックスを地面に下ろすと、身体がふわっと浮き上がるような、心地よい感覚を覚えた。ほっとしたのも束の間、前触れなく肩に鋭い痛みが走り抜け、思わず声が洩れる。想像以上に負担が掛かっていたらしい。
 智宏は肩をさすりながら、地面に置かれている支給武器を見た。いまいましいその無機質な箱は、智宏をあざ笑うかのようにどっしりと構えている。
「決めた」智宏は顔を上げた。「俺はこいつを捨てる」
「えー、捨てるのー?」
 翼が不満の声を漏らす。これを手放してしまうと智宏は丸腰になることになるが、おそらく翼が心配しているのはそのことではないだろう。
「しかたないよ。これは無用の長物以外のなにものでもない。持っててもくたびれるだけだ」
「あーあ、高級食材が目の前にあるのに食べれないなんて」
 やっぱりそっちか、と智宏は思った。
「食べたきゃ食べればいいよ。毒に中っても構わないって言うならな」
「残念だなー。はっつぁん、フグさばいたことないの?」
「あるか。免許がなきゃ違法だぞ」
 こうしていると弟をなだめているような気分になる。智宏には2人の弟がいるのだが、小学校に上がったばかりの末の弟が、ちょうど翼のように駄々をこねて兄の手を煩わせるのだ。
「しかし、ここに放置するってのも気の毒だな。浜もそばにあることだし、海に放すか」
 智宏はあごをしゃくった。道路の向こうに“歩島貝堀場”という看板が掲げてある掘っ立て小屋があり、その下を幅の狭い砂浜が横切っていた。そこへ波が小さく寄せては、静かに引いている。
「あーあ。もったいない」
 翼はまだ残念がっていた。
 クーラーボックスを再び肩から提げ、砂浜に飛び降りる。ふたを開けると、何も知らないフグは、つぶらな瞳でぼんやりとどこかを見ていた。その様子を見て、ふと、こいつはここの海に馴染めるだろうかと思った。ほんの少しの間ではあったが、時を共に過ごしてきたのだ。あるいは親近感が湧くのも無理はないのかもしれない。
 波打ち際に中身をあける。するとフグは、狭いところに閉じ込められているうちに弱ってしまったのか、力無くその場に漂っていた。
「悪いな。達者でな」
 クーラーボックスを砂浜に置き、フグが沖の方へ向くのを確認したあと、気分を一新して振り返った。
 少し離れたところから見てみると、改めて倫香の様子がおかしいことに気付く。深くうつむき、身体を縮こまらせている様は、蛇に見込まれた蛙かなにかのようだった。あきらかな怯えの色がこの位置からも感じ取れる。もちろん恐いのはわかるが、隣にいる翼にさえ気を許していないように見えるのだ。
 そして、倫香の手に握られた短剣が異様さを際立たせる。柄の部分に美しい装飾が施されていることからして、実践用というよりは観賞用のようだが、刃渡りがゆうに40センチもある。とりわけ小柄な倫香が持つと、それは多大な威圧感を漂わせた。
 倫香はそれを出発当初から握り締めていた。まるで、自分の身は自分で守るとでも言いたげに。
 不安感に急き立てられ、智宏は2人の下へ駆け戻った。そこで倫香に声をかけようとしたところ、所在なげに身体をぶらぶらさせていた翼が先に口を開いた。
「あんな浅いとこに捨てたら打ち上げられちゃうんじゃない?」
「え? ああ……」智宏は翼へ視線を移した。「そうか? まずいかな」
「まあいっか。どうにかなるよね」
 翼はにっと笑むと、智宏よりもだいぶ細っこい身体を軽快に飛び跳ねさせながら、先を歩きだした。その呑気な立ち振る舞いを見ているうちに、智宏は倫香に何を言おうとしたのか忘れてしまった。
 ――まあいっか。
 深く考えることをやめ、翼に続くことにした。2、3歩駆けて、倫香が立ち止まったままでいることに気付くと、智宏は振り向きざまに呼びかけた。
「倫香、行こう」
 その言葉に反応して、倫香はゆっくりと翼のあとを追い始めた。しかし結局、声は聞けないままだった。

【残り35人】