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 学校を含むE=3エリアが入場禁止になって、10分が過ぎる。
 プログラムの実行本部が設置されている小学校の敷地は、猫の額ほどの広さだった。校庭の北西を片側一車線の道路が通り、その向こう側には緩やかな傾斜の段々畑が広がっている。一部を占めるはっさくの木は実りの時季を過ぎようとしていた。まばらになった実が風にゆれ、風景の寂しさを埋めるようにさわやかな香りを振りまいている。
 広瀬仁(男子14番)はその段々畑のちょうど中腹に腰掛け、ずっと天を仰いでいた。仁が住んでいる町とこの島とでは夜空の明るさがまるで違う。鋭く研ぎ澄まされた月の光が、突き刺すように暗闇を照らすのだ。月は少しだけ欠けている。満月まであと2日といったところだろうか。
 2日後。仁にはそれが、とんでもなく遠い未来のように思えた。食べ物や水をほんの少ししか与えられず、睡眠ものんびりととれないという状況で、体力に自信のない仁は1日だって乗り切れる気がしなかった。
 ――遼子と一緒なら、心細さもすっかり消えるだろうに。
 仁の頭に幼なじみの顔が浮かんだ。考えまいとは思っていたが、何を考えても結局は彼女に行き着いてしまう。吹坂遼子(女子13番)。家が隣同士で、クラスの誰よりも長い間付き合っている、仁が絶対の信頼を寄せている人物だ。
 あの教室で3年3組の生徒たちは死の宣告を受けたも同然だったわけだが、仁はそれほど動揺しなかった。自分の直前に出発するのが遼子だったため、当然彼女と合流できると思っていたからだ。
 ところが、玄関先に遼子の姿はなかった。呆然とする仁の頭を、いつかの彼女の言葉がかすめる。
「ニュースを見る限り、プログラムは毎回、順調に実施されてる。参加したクラスはほとんど例外なく、確実に殺し合ってる」
 ――そういうことを知ってるから、やっぱり僕のことも信じられなかったんだろうな。
 自分でもひどく落胆しているのを感じながら、仁はあてもなく歩き始め、この段々畑に行き着いた。見れば小学校とは200mほどしか離れていなかったが、支給された地図によると最初の禁止エリアにここは含まれていないので、腰を落ち着けることにした。
 これだけ出発地点から近く、これだけ無防備なのにも関わらず、幸か不幸かこれまで誰とも遭遇していない。一度だけクラスメイトを見かけたが、遼子のことがあった直後なので何をしても信用を得られる気がせず、結局声をかけることはなかった。木々の向こうに見えた、おぼつかない足取りで段々畑を登っていく人影――あれは学級委員の竹岡鳴(男子10番)だっただろうか。仁は息をひそめ、人影が通り過ぎるのをひたすら待った。鳴は辺りを見回しながら、しかし仁に気付くことなく行ってしまった。
 今になって、やはり呼び止めた方がよかったのではないかと後悔の念がうずまく。冷静に考えてみれば、鳴はそれほど疑い深くなさそうだし、頭もいい。それになにより、今の自分には隣にいてくれる誰かが必要だった。なのに機会をふいにしてしまった。
 落ち込みながらも支給された武器を確認し、仁は改めて途方に暮れた。黒い布に包まれた数々の道具――木の板、金づち、釘、ろうそく、何かの御札、そして、藁でできた人形――。ご丁寧にも“呪法マニュアル”なるものまでついている。銃や刃物よりも、こっちのほうがよっぽど物騒な気がした。もちろん、これを使って誰かをどうにかするつもりはないが、セット内容が充実しすぎていてなんとなく気味が悪い。背中に寒気を感じたので、すぐにそれらをデイパックに戻した。
 そのときだった。かさっ、とほんのかすかな物音がして、仁は思わず身を縮めた。
 葉の擦れ合う音だ。後ろ、ここよりもっと上の方で、何かがはっさくの葉に触れたらしい。しばらくして音が連続し始めた。誰かが近付いてくるのだ。
 仁は身をいっそう低くし、音のする方を凝視した。視界を遮る木と木の隙間を一瞬白いスニーカーが覗く。ズボンを穿いているふうではないので、おそらく女の子だろう。白いスニーカーは仁に気付くことなく、遠慮なしに突き進んでいる。
 女の子で、誰なのかはわからず、靴の色が違うため遼子でもない。声を掛けたかったが、仁は普段女の子と親しくする習慣はなく、おそらく向こうもこちらに馴染みは薄いだろう。となると、今すぐに正体をさらすのは軽率な気がした。
 しかし、彼女の向かっている場所が少々問題ありだった。仁のいる位置は彼女の進行方向から外れているので、動かなければやり過ごせる。だが、その先は禁止エリアなのだ。方向を間違えたか、それとも意図的にこの道を選んだか――。
 彼女がちょうど同じ段に降り立ったのを見た瞬間、それがまるで合図であるかのように仁の心を揺り動かした。決意を固め、立ち上がる。
「あのー……」
 彼女は跳ねるように振り向いた。ミディアムヘアがはっさくの葉をかすめる。月明かりに照らされた青白い顔の主――古屋祥子(女子15番)は、驚きの色を浮かべ、立ちすくんでいた。
 丸腰であることを主張するため、仁は両手を上げた。
「こ、こんにちは。驚かせてごめんね」
 祥子はしばらく仁を凝視していたが、長く息を吐いたあと、頬をゆるめた。
「こんな時に挨拶って、あんたどこまで礼儀正しいん」
 その関西なまりのある柔らかな声を聞いて、仁はほっとした。この声、それに笑顔は、なんだか気分を和やかにしてくれるのだ。
 古屋祥子は、どんなときでもにこにこしている温厚な女の子だった。生まれ育ったのは奈良で、こちらに越してきたのは小学校6年生の頃のことだ。当時、祥子は同学年の間でちょっとした有名人だった。物珍しい関西弁と、6月の上旬という季節外れの転入が要因だろう。なにか特別な事情があって故郷を離れることになったらしいが、仁はクラスが違ったため、詳しいことは知らなかった。
「見つかったんが広瀬くんでよかったわ」
 祥子は背中のデイパックを地面におろしながら微笑んだ。仁は言葉の意味を図りかね、首を傾げる。
「あんたなら、誰も殺したりしいひんやんな」
 祥子がいつもの穏やかな表情でそんなことを言う。“殺す”という直接的な言葉が異様に浮き立ち、仁をどきっとさせた。
「あの、もちろんだよ、そんな……」
「わかっとるわかっとる」
 仁の慌てる姿を見て、祥子は吹き出した。
 笑われたことに赤面しながらも、揺れる肩の向こう、祥子のデイパックから羽のようなものがはみ出しているのに気付く。祥子は仁の心を読んだように羽を指差した。
「これな、ボウガンの矢やねんて。わかる? ボウガン。飛び道具やで、ええやろ」
 その言葉とは裏腹に、ボウガン本体はどこにも見当たらなかった。デイパックにしまったままになっているらしい。
「広瀬くんの武器は何?」
 できればあんな不吉なものは思い出したくなかったが、仁はためらいつつも答えた。
「えっと……藁人形……」
「うわー、またえらいもんに当たったなあ。……で? 誰を呪うの?」
「の、呪わないよ」
「嘘やん、せっかくのチャンスやのに」
「勘弁してよ」
 祥子はなおも笑顔を絶やさなかった。こんなときでも彼女らしさは失われずに保たれているようだ。考えてみれば、今までに祥子の憂鬱な顔など見たことがない。――ただ1回の例外を除いては。
 仁はほんの1時間ほど前のことを思い出し、尋ねた。
「さっき泣いてたよね、教室で。もう大丈夫?」
 小学校の教室で待機していたとき、祥子のすすり泣く声は仁の耳にも届いていたのだ。仁の席からは後ろ姿しか見えなかったが、悄然とうなだれている祥子は痛々しいほどだった。いつも背筋をぴんと伸ばしているだけに、その様子はとても印象的だった。
「見られてないと思っててんけど……」
 祥子は目を細めたまま、軽く息をついた。
「まあ、ちょっと泣いたら余計に悲しくなってきて、涙が止まらんようになったってとこやな。あれなら笑っとる方が全然楽やわ。笑っとるうちは、幸せやって錯覚できるしな」
 ――錯覚。
 呆然として、祥子の言葉を反芻する。少なからず衝撃を受けていた。彼女の幸せそうな笑顔は、心が満ち足りていることによる結果ではなく、そうなるための手段だったというのだろうか――。
 今まで特に気に掛けることもなかったが、仁には思い当たるふしがあった。溜め息の多さだ。昼食の時間やクラスメイトと談笑している最中など、そういったなんでもないときに、祥子はよく溜め息をついていた。癖なのかと思った程度で、その理由を推し量ったことはなかった。
「ああ」祥子はいつものように、息を短く吐いた。「こんなこと話したら、うちが暗い女ってことがばれてしまうわ。ごめんけど、今の話は忘れてな」
 仁が曖昧にうなずくのを見て、祥子は思いついたように、「そうや」と呟いた。
「ごめんついでにな、ちょっと頼まれてくれへん?」
 唐突の申し出だったが、祥子がしごく気軽な口調で尋ねるので、仁は思わず了承した。祥子は空気をゆっくりと胸に満たすと、まるで郷愁を噛みしめるように、しみじみと微笑んだ。
「もし、平野くんに会うことがあったらな……」
「平野くん?」
 その名前が出たことが仁には意外なことに思えた。柔道部の厳格な副主将である平野要(男子13番)は、鼻炎持ちということもあってか、いつもどことなく不機嫌そうな顔をしており、祥子とはまるで対極にいるような人物だった。ふたりが特別親しかったという記憶もない。
 祥子はうなずき、続けた。
「平野くんに謝っといて。うち、やっぱ無理やったって、ごめんなって、伝えて」
 ――どういう意味だろう。聞きとがめて、問い返そうと口を開きかけ、見た――祥子の顔からすっと笑みが消えるのを。
 仁がそれを認めると同時に、祥子はボウガンが入った荷物を頭の上に掲げ、こちらにありったけの力で投げつけてきた。驚く間もなく、仁は反射的に後方へ飛び退き、足元に落下したデイパックに注意を向けた。
 そのほんの一瞬のすきに、祥子がそこから姿を消したことに気付いた仁は、慌てて辺りを見回した。人影はすぐに見つかった。段々畑をがさがさと蠢くその影は、小学校――禁止エリアへと向かっていた。
 ぼん、と腹に響く音が仁の耳に届いた。
 道路の路肩に足を踏み入れた途端、祥子の首が弾け、そこから液体が噴出した。その場に倒れこむとき、奇妙な動きで頭がぶらんと仰け反った。爆弾の配置に片寄りがあったのか、どうやら首輪の爆発に皮の一部が耐え、辛うじて胴体と繋がっているらしい。
 頭上から降り注ぐ月光が凍ったように冷たかった。このままでは祥子の体温は奪われてしまうばかりだ。なんとかして祥子を野ざらしの状態から脱させたいと思った。身体が冷たくなったら、まさに死体そのものになってしまう。目の前で人が死んでしまったという事実を、仁はまだ認めたくなかった。
 遠いために表情は見えないが、不自然な角度で曲がっている祥子の頭がこちらを見ていた。
 ――ごめんなって、伝えて。
 最後の言葉が繰り返し頭の中を巡り、離れない。
 仁はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

女子15番 古屋祥子 死亡
【残り35人】