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 視線の先に映ったのは、針と数字に蛍光加工が施されている竹岡鳴の腕時計だった。9時40分とちょっと。美依が学校を出発してから、すでに10分が経っていた。
 鳴のマシンガントークは止まるところを知らず、美依はうんざりしながら適当に相槌を打っていた。内容はプログラムに関したことだったが、次第に国の批判へと発展していき、途中から耳を貸すのも煩わしくなった。
 デイパックの中身は確認しておいた方がいいと、美依は鳴のひとり言にどうにか割り込んだ。ふたりはいったん、学校のすぐそばにある民家のガレージに身を落ち着かせることになった。土の地面に座るのが憚られたので、美依はそこにあった軽トラックの荷台にデイパックを置き、手探りで中身を確認した。
 1リットルくらいの水が入ったペットボトルが2本。パンの包みが2袋。地図らしい紙。方位磁針。腕時計。懐中電灯。そして手のひらに収まるくらいの、硬く細長い物体。感触ではよくわからなかったので、手に取って目を凝らしていると、鳴が気を利かせたつもりか懐中電灯で美依の手元を照らした(ありがた迷惑だが)。――ツールナイフ。ドライバーや缶切り、プライヤーなどのツールが組み込まれている多機能なナイフだ。どうやらこれが武器らしい。アウトドアでは重宝するかもしれないが、これで人に致命傷を与えられるかといえば、答えは限りなく否だろう。
「俺はこれだった」
 鳴は肩を落として、それが支給武器なのか、小ぶりなペンチを美依に見せた。ツールナイフもたいしたものだが、それは輪を掛けて役立ちそうにない。これでは殺し合いに参加することを頭から拒否されている気になってしまう。美依は溜め息をつき、ツールナイフをスカートのポケットに入れた。
「そういえば西村さん、けが大丈夫?」
 鳴に尋ねられて、美依はつい先ほど派手にスライディングしたことを思い出した。そのときに右のひざをすりむいたのだ。
「ああ……大丈夫大丈夫」
 心配されても鬱陶しいだけなので、美依は得意の笑顔を作った。しかし辺りが薄暗いために、鳴がそれに気付いた様子はなかった。
「消毒とかできればいいんだろうけど、とりあえず洗っとこっか」
 美依がいいよいいよと言うのも聞かず、鳴はさっさと傷の手当てを始めた。ペットボトルの水をふんだんに使って砂埃を洗い流し、自分のハンカチを折り返して患部に当てる。包帯みたいなものが欲しいと言うので、美依のエプロンの腰紐を代用することにした。鳴はそれをハンカチの上から巻いていき、最後に綺麗な蝶々結びで締めくくった。ずいぶんとサービス精神が旺盛なことだ。
 紐が長いせいで随分と大袈裟になってしまったが、これで鳴は気が済んだようだった。ありがとう、と感謝の言葉を述べておいた。
「あっ、早くしないと体育館から人がいなくなるよ」
 応急処置が終わると、鳴は性急にガレージから飛び出した。美依は慌ててその後を追おうとし、気付いた。――待って。あたし、この人のペースに乗せられてない?
 不快感を覚えたので、それを少しでも緩和させようと水を飲んだ。そしてはたと思いつき、ひざに巻かれた包帯の上でペットボトルを傾けた。痺れを切らしたように、鳴が「西村さん早く」と言った。
 体育館では、相変わらずバスケットボールの試合が繰り広げられている。両者ともなかなかゴールを決められないのか、ドリブルと足音は途切れない。よく体力が続くな、と美依は思った。ただ、いくら元気が有り余っているからといって、プログラム序盤から身体をくたびれさせるという神経は理解できないが。
「あ、ここから入れるね」
 鳴が正門とは別の小さな門に気付き、小走りでそこから敷地内に入っていった。美依もそれに続いた。
 ――聞いてみようか。
 美依は脈絡もなく考えた。
 それを知ったところで特に何が変わるというわけでもない。思い違いだったとしたら、鳴に余計なことを喋られて反対に危険かもしれない。しかし、気がかりが胸につかえているままでは面白くなかった。それが後悔の元となって、きっと夜も眠れなくなるだろう。
 今が、話題が尽きて沈黙の落ちている今が、答えを知る最後のチャンスだった。
「ねえ、竹岡」
「ん?」鳴はドアノブに伸ばしかけた手を引っこめ、振り返った。「何?」
 自分の仮定と鳴の回答が合致していることを祈りつつ、美依は聞いた。
「MDの中身、ほんとは知らないでしょ?」
 すると鳴は、えっ、と声をひっくり返した。それから指で顎をかいて苦笑した。
「やっぱりばれた?」
 ぴんぽーん、大正解、美依は心の中で呟いた。
 鳴に対してびくびくしていたのが急に馬鹿らしく思えてきた。やがて、じわじわと腹が立ってくる。この男に騙されたこと、それに自分へ注意を引くための姑息なやり口に。しかしわからないことは、“MDの内容がいかがわしいものである”という情報をどこから得たのかということだ。
「誰かから噂、聞いたとか?」
 美依が慎重に尋ねると、鳴は気軽な調子で答えた。
「うん。森上さんがね、西村さんのMDを聞きたくないかって。あの人のためにテストの対策をまとめるのが条件でね。どんな内容かを聞いたら、“西村美依の赤裸々な私生活が露見するMD”だって。わけわかんないから断ったけどね。自分で勉強しないとためにならないよって言っといた。あ、これ、口外無用って約束だったな。まあいっか。ところでなにが赤裸々なの?」
 それで納得ができた。
 主犯は森上茉莉(女子18番)、様々な電子機器をいつも持ち歩いているあの女の子だったのだ。彼女は当然のようにポータブルMDも持っている。MDはブレザーの胸ポケットに入れたままにしてあるので、体育の時間だけは更衣室に置き去りにすることになる。そういえば彼女は、“めんどくさいから”と言って体育の時間によくいなくなっていた。その時に聴いたのかもしれない。――人の物を勝手に触るなんて、あたしになにか恨みでもあるの?
「茉莉ちゃん、他の誰かにそのこと話したって言ってた?」
「いや、聞いてないけど……」鳴はそこで言葉を切り、めずらしく逡巡した。「でも、俺にしか教えてない、と、思う」
 なにか根拠があるような口振りだったが、特に興味もわかなかったので、そこで話題を終わらせることにした。美依は鳴の背中を軽く叩き、微笑んだ。
「じゃ、はやく体育館の中、見てみようよ」
「あ、うん、そうだね」
 鳴が慌てて扉の方に向き直り、ドアノブを回す。美依はその様子を鳴の背後から静かに見ていた。
 ゆっくりと手前に引かれていく扉の隙間から、ボールを追い掛け回している2人の男子生徒が一瞬だけ見えた。ひとりは金髪だったので、小田春生(男子3番)で間違いないだろう。もうひとりはよくわからなかった。春生はもちろん、あの不良と遣り合っているもうひとりの人物も、どうやら只者ではなさそうだ。
 美依は鳴の背中に視線を戻した。鳴が体育館を覗き込んだ瞬間、そこが狙い目だった。
「バイバーイ」
 美依はドアノブを握っている鳴の手を引き剥がし、扉を勢いよく開けると、鳴の背中に蹴りを入れた。その無抵抗な身体は、なめらかな体育館の床に倒れこむ。すばやく扉を閉め、向こう側から開けられないように全体重をかけて扉に寄りかかりながら、ガレージであらかじめ濡らしておいた包帯代わりの紐をひざからほどき、観音開きのドアノブ両方にしっかりと巻きつけた。水分を含んだことで摩擦力が大きくなったその紐は、しばらくの間、これを開かずの扉に仕立ててくれるだろう。
「えっ、ちょっ、西村さんっ?」
 扉の向こうで鳴の叫び声が響いた。ドアノブをがちゃがちゃと鳴らし、やがて開かないのを悟ったのか、扉をどんどんと叩き始めた。
「西村さん! どういうこと? 開けて!」
 その頃にはもう、美依は走り出していた。一刻も早く鳴から離れなければならなかった。体育館の扉はまさかあれひとつではないだろうから、鳴が外に出てくるのは時間の問題だ。
 ただ残念なのは、小田春生やもうひとりの男子生徒が“やる気”かもしれないことだった。陣地に乱入してきた部外者を、それこそ“消して”くれるかもしれない。その現場を見られないのは非常に惜しい。しかしとにかく、鳴から離れることの方が先決だった。
 足取りが軽くなるのを感じる。鳴の存在が自分にとってどれだけ重荷だったか思い知らされた。上を向くと、満天の星がちかちかとまたたいて、それがまるで笑みを誘っているように見えた。気分爽快だった。
 その声を聞くまでは。
「美依!」
 不意に後ろの方から名前を呼ぶ声がした。
 やや低い、しかし綺麗なその声には聞き覚えがある。それもそのはず、学校内外で毎日を一緒に過ごし、電話でも飽きるほど話をした、美依と一番仲のいいクラスメイト――吹坂遼子(女子13番)のものだったのだ。
 しかし美依は立ち止まらなかった。
「美依!」
 もう一度呼びかけられた。心臓が飛び出しそうになったが、相手が誰であれ、捕まるのはもうごめんだった。
 美依は田圃とフェンスに挟まれた一本道を全速力で駆け抜けた。太陽の下では鮮やかな緑色に映えるであろう、道の先にある小高い山を目指して、ただひたすら走った。

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