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6
 廊下には血のにおいに混じって磯の香りが漂っていた。寄せては返す波の音がかすかに聞こえる。月家具の言うように瀬戸内海が近いのだろう、それは子守唄のように穏やかな、規則正しいリズムだった。
 蛍光灯は天井に備え付けてあるらしいが、明かりはなく、辺りは薄暗い。廊下の窓にも教室と同じように鉄板が打ち付けられているため、外の様子は見えなかった。これはおそらく、生徒たちによる襲撃を防ぐためのものだろう。
 月家具の指示どおり右へ進んだ。クラスメイトがまだ15人ほど残っている教室の先に、同じような教室がふたつ続いているのが見え、その先を通路が右に折れている。
 突き当たり、職員室らしい部屋の扉は開け放たれており、そこから光が洩れていた。そこに広がっていた光景に、美依は思わずぎくりとした。
 部屋の中を、専守防衛軍の兵士が埋め尽くしているのだ。ざっと見積もっただけでも20人はくだらない。父の話によると、そこで生徒の生存確認や現在位置といったデータを管理しているらしいのだが、これだけの数の兵士を見せ付けられては政府へ反逆心を燃やす生徒も戦意喪失を免れないだろう。もし支給された武器が強力な銃であり、またそれを手にした同志が集まったとしても、多勢に無勢だ。
 ――“銃”。
 そこまで考えて、その単語が胸に引っ掛かった。理由はよくわからない。美依は疑問をかかえたまま、とりあえず歩を進めた。
 空き教室、2階へ続く階段を通り過ぎ、角を曲がった。廊下の幅が倍に広がり、少し進んだところにベージュ色をした大きな下駄箱がふたつ、背中あわせに並んでいる。その向こうには新しそうなガラス張りの観音扉があり、それは開放されていた。外が真っ暗であることから、美依はやっと現時刻が夜だと知った。
 月家具の言うとおりなら、その下駄箱に靴が入っているはずだった。美依のものはなんの変哲もない白いスニーカーだ。さっさと見つけて、一刻も早くこの場を去らなければならない。2分すれば次の出発者がきてしまう。
 美依は片方の下駄箱を見渡した。男女それぞれのものが出席番号順に入れてあるらしく、靴の集団がふたつできている。三津屋中学校3年3組の下駄箱を忠実に再現しているのなら、左のかたまりが男子、右が女子のはずだ。
 女子の方をひと通り見た。持ち主の個性が出た見覚えのある靴が並んでいるが、根尾倫香のものであるローファーの隣は空だった。
 首をひねりながら、男子の方に混じってはいないかと、そちらも確認してみた。そこにも美依の靴はなかった。
 なにかの手違いで別の下駄箱に入れられたのかもしれない、そう思って裏へ回り込んだ。そう、運んで来たのは人間だ。多少のミスはやむを得ない。
 しかし、もう片方の下駄箱には紙くずのひとつさえ見当たらなかった。
 美依はすばやく元の場所へ戻り、改めて丁寧に視線を走らせた。焦燥感がじわじわと身体に広がってくる。茶色、黒、星柄――。他のクラスメイトのものは揃っているのに、どこを探しても、やはり自分のスニーカーだけがそこから忽然と消えている。
 そうしているうちに、ふと一足のスニーカーが目に入った。男子の方、それだけが群れから離れている。そのスニーカーは白く、型もよく似ているが、しかし美依のものでないことは一目瞭然だった。色とりどりの蛍光ペンでペインティングされている上、かかと部分には、悪筆だがはっきりとこう書かれているのだ。
“レージ・イシグロ”
 美依は思わずぽかんと口を開けた。ほんの一瞬の間だが、頭の中が真っ白になり思考を受け付けなかった。
 それは、30分ほど前に出発したはずの石黒玲司(男子2番)のスニーカーだった。いつだったか、玲司が“ゲーシュツ作品でしょ”と自慢しまわっているのを北須賀祐(男子5番)に笑われていた記憶がある。それがここにあり、代わりに美依の靴がないということは、つまり玲司が取り違えて履いていってしまったということだろうか。確かに、玲司は頭の回転が速いとは言えないし、クラスの中に彼ほど、そこつ者、という表現がしっくりくる人物もいない。しかし、まっさらな靴とおめでたいカラフル靴とを間違えるという事態は、それを考慮に入れてもそうそうありえないことだ。そのときの彼の心理状態を想像すると、呆れを通り越して哀れみさえ湧いてくる。
 ――しょうがない、上靴のまま行こう。
 ひとつ溜め息をつき、そうやって気を抜いている自分に気付いたときには、すでに手遅れだった。かたん、という物音が聞こえ、美依はとっさに出口と逆の方を向いた。しまった、と臍を噛む。
「あ、西村さん……?」
 男が立っていた。
 ホームルームなどで聞きなれた、時折ひっくり返る声。そして美依に続いての出発。薄暗いために顔はよく見えないが、それが誰なのかはすぐわかった。男子学級委員の竹岡鳴(男子10番)だ。
 その姿を認識したと同時に、美依は出口めがけて走り出した。
 鳴はきっと仲間を集めたがっている。先日クラスで修学旅行について話し合った際も、“団体行動厳守”をやたらと強調していたから間違いない。誰かに捕まるだけでも具合が悪いのに、その相手が竹岡鳴ということになると、自由だけでなく心の平安まで奪われたも同然だ。そのスッポン並みのしつこさと畳み掛けるような話術で、向こうのいいように言いくるめられてしまうだろう。――それにどうせなら、小姑のように口うるさい男より、馬渕謙次(男子17番)や個人的趣味で平野要(男子13番)あたりのさわやかな顔と過ごしたい。
 やはり鳴は仲間集めを考慮に入れているらしく、すぐさま美依を追いかけてきた。しかし自分ひとりに執着する理由があるとも思えない。きっとすぐ諦めるだろう。
 背負ったデイパックが重く、走るのに困難を極めたものの、美依は足の速さに多少の自信があった。それというのも、娘をプログラムの優勝者に仕立てようと目論む母に、幼少の時期から様々な訓練を強いられたからだ(小学校のころ、ある日突然クロスカントリー大会に出場させられたこともあった――結果は惨憺たるものだったが、母は美依に長距離走者としての才能があると信じ、最近ではフルマラソンで世界新記録を樹立しろなどと無茶なことを言い出している)。もともと身が軽い美依は、そういう経緯もあって、クラスの誰よりも速く走れると自負していた。
 ガラスの扉を抜け、3、4段の階段を一気に飛び降りる。右手はグランドへ通じているらしく、すぐ正面には門があった。美依は迷わず直進した。
「待って。ねえ、西村さん、待ってってば」
 鳴が気の抜けた声を上げた。
 細道が三叉にわかれている。正面には古い民家が密集しており、身を隠すには恰好な場所のようだが、同じように考えるクラスメイトはおそらく数多くいるだろう。それに“禁止エリア”のこともあるので、なるべく早く学校から離れたかった。左の道を選ぶ。
「西村さん! ちょっと待ってよ!」
 美依は舌打ちしたくなった。名前を連呼されるのはまずい。これでは自分の居場所を知らせながら移動しているのも同然だ。
 ――それにしても――。
 よくついてくる、と美依は思った。10mほど後方から聞こえる足音が、一向に差を開こうとしない。休み時間にやることといえばもっぱら塾の課題で、部活動をしていない理由は勉強に支障をきたすからだという、まるで運動不足の代名詞のような男が、自分の足についてきている。にわかには信じがたいが、それは事実だった。
 次第に恐怖が押し寄せてくる感覚に陥った。もちろん思い込みだということはわかっているが、鳴が背中に、まるで背後霊のようにぴったりと張り付いているような、そんな気がしてならない。美依はそのイメージを取り払おうとかぶりを振った。しかし鳴はなおも離れず、耳元で囁く。
「俺さ……」息も絶え絶えに、鳴は叫んだ。「俺、知ってるんだけど!」
 ――あいつは知らない、なにも知らない。美依は自分に言い聞かせた。
 学校を囲んでいるフェンスに沿って、角を再び左に曲がった。右手に月明かりを浴びた青い田んぼが広がっている。稲か何かの植物が風に吹かれて波打つたびに、その表面をきらきらと光の粒が踊った。ノスタルジアに縁のない美依にさえ、田舎っていいものだな、と思わせる光景だった。
 平静を取り戻すために、問題とは関係のないことを考えようとしていた美依だったが、「MD!」という鳴の言葉を聞いた途端に心の動揺をごまかしきれなくなった。ひざの力が抜けたが最後、あっという間に体のバランスは崩れた。
 デイパックの重力に引っ張られた美依は、舗装が充分でない地面に右肩から突っ込んだ。勢いが余って、ざざざ、と1mほどの距離をスライディングした。砂煙が辺りを舞う。顔はなんとか無傷ですんだが、右のひざをすりむいてしまった。
「あっ、大丈夫?」
 鳴が素っ頓狂な声をあげたかと思うと、やっとのことで美依に追いつき、どすんとその場にへたり込んだ。美依は怒りに震えそうになった。――大丈夫って、誰のせいでこうなったと思ってるの?
「足、速いんだね」
 目の前にある物体をぼんやりと見つめる。それは学校指定の上靴だった。鳴もまた履き替える暇がなかったらしい。自分とこの男が同じものを身に付けていることが、無性にいまいましかった。24.0――サイズまで同じだ、虫唾が走る。
 鳴は呼吸を整えたあと、堰を切ったように喋りだした。
「なんで逃げたの? 俺ってそんなに怪しい? いたって人畜無害だよ。ほら、武器もまだデイパックの中で、手には持ってない。それに変わるものとか、たとえば社会問題化してるナイフなんかも持参してない。腕力もあんまりない。あ、そっか、いきなりだったからびっくりしたのか。大丈夫、もう安心していいから……」
「ねえ」
 美依はすっかり立ち上がる気力を削がれていたが、とりあえず、目下の疑問を解明しておかなければならなかった。なぜ鳴が“そのこと”を知っていたのか――。
「MDって……なんのこと?」
「あれ、しらばっくれてる?」
 鳴が間髪をいれず言う。顔は見えないが、その声には呆れのニュアンスが含まれていた。美依が黙っていると、鳴は早口でまくし立てはじめた。
「西村さんが今ここで逃げたとするよ。そしたら俺はクラスの人たちを集める。その人たちにその中身ばらしちゃってもいいの? そしたらたぶん西村さんは信用なくすよ? 脱出方法を思いついても仲間に入れないよ? 次に会ったら、みんな襲撃しちゃうかもしれないよ?」
 ――脱出方法。仲間。襲撃。
 それらの単語が、美依にはまるで駄洒落のように聞こえた。どうも現実味に乏しい。この長話を聞いているうちに、美依の心には余裕が生まれていた。
 男子学級委員の支持率が伸び悩んでいるのはこういう長い説教に起因する。もし仮に仲間を集められたとしても、果たして何人の人間が鳴の言葉を信じるだろうか。鳴と美依、どちらがクラスメイトに信用されやすいかといえば、断然か細くて同情心を誘いやすい美依だろう。――そもそも、鳴が本当にMDの内容を知っているのかも怪しいものだ。存在は確認できても、内容までは知り得ない。MDは美依が肌身離さず持っているのだ。
 美依が何も言わないでいると、鳴はふたたび口を開いた。
「まあ、隠したいと思うのも無理ないか。だってあんな……」
「ねえ!」
 美依が跳ね起きると、その様子に驚いた鳴は目をまんまるくした。ただでさえ多くを占めている白目の部分がさらに広くなり、暗い中に浮かび上がった。
 もしこの男が嘘をついていないとしたら厄介だった。生徒同士の会話はすべてプログラム担当官たちに筒抜けだ。鳴の話を通じて機密漏洩していたことが政府に知れれば、自分はおろか、MDを手に入れた父の命も危うくなりかねない。生活力のない母のためにも、それだけは回避したかった。
「ちょっと、聞いてもいい?」美依は鳴の顔をじっと見つめた。「なんでそんなに必死に、あたしなんかを追いかけてきたの?」
 話題をそらしたいこともあったが、それは正直な質問だった。鳴の後にはまだ10数人の人間が控えていたのだ。仲間集めのチャンスを投げ打ってまで、なぜ自分を追ってきたのだろうか。
 美依はここで答えを聞けるものだと思っていた。しかし、当の鳴はきょろきょろと辺りを見回し、調子はずれなことを言い始めた。
「なんか……ボールの音、聞こえない?」
 美依は訝ったが、鳴の視線を追ったあと、我が目を疑うことになる。
 フェンスの向こう、学校の敷地内には小さめの体育館があるのだが、その窓から煌々と光が洩れているのだ。耳を澄ますと、鳴が言うように、バスケットボールかなにかを床につく音が聞こえてきた。きゅっ、きゅっ、という足音も入り混じり、あろうことか「イエー」という能天気な男の歓声まで館内に響いた。ひとり――いや、少なくともふたりはいるだろう。鳴が「バスケ部の人らかな」とつぶやいた。
 3年3組のうち、バスケットボール部に所属している生徒は、まず長谷ナツキ、久枝布由(女子12番)福谷佳耶(女子14番)――男子は、美依の靴を持っていってしまった石黒玲司、それから久保寿英(男子6番)、だっただろうか。いずれもわりあいに“普通”とされる人物たちだ。こんな状況下でのんびりとバスケットボールを楽しめるようには見えない。
「仲間になろうって誘ってみようか」
 鳴はさらりと言ってのけた。危ないよと反論しようとしたが、残念ながら鳴の口は止まらなかった。
「あ、警戒してるでしょ。あの人らが“やる気”じゃないかって。でもバスケ部だったら信じられることない? 西村さん、たしか長谷さんと仲良かったよね。あ、今の声は男だったかな? でも男子だとしてもぜんぜん心配ないと思うよ。そうだ、ちょっと覗くだけでも。もしバスケ部じゃなくて、信じられそうな人でもなくて、怪しいやつだったら、そのときは逃げればいい。ね、そうしようよ」
 意気揚揚と立ち上がった鳴は、美依に手を差し伸べた。その呑気さが奇妙に美依の目に映る。美依は控えめな動作で制服についた砂埃を払い、鳴の手に気付かないふりをして身を起こした。
「そうだよね……ちょっと恐いけど……。覗くくらいなら、いいかな」
 それを聞いた鳴は、所在無げに浮いていた手で嬉しそうにガッツポーズをした。それほどまでに仲間を集めたいのだろうか。美依には鳴の気持ちがさっぱり理解できなかった。MDの内容を本当に知っていたとしたら、この一連の行動はもう酔狂としか言いようがない。“勉強ができる”と“賢い”は、必ずしもイコールではないということだろう。
 美依はある結論を出していた。ひとりになるためにはどうすればいいか。ただひたすら逃げるのもいいが、それでは問題を先送りしたにすぎない。捕まったときの対処法、それはごく単純なものだった。
 先を歩き出した男の背中を見た。デイパックが左肩に掛けられていることで、防備となるものが何もなかった。――とても都合がよかった。
 邪魔者は、消せばいい。

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