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5
「美依ちゃんって、ちょっと怖いよね」
 小学4年生の頃、仲のよかった女の子にそう言われたことがある。
「どこが?」
 すぐに聞き返したものの、答えはだいたい想像がついた。少し変わった家庭環境で育った美依だったが、世間一般で言う“普通”が自分の観念と少し違っていたことは、その年頃にはうすうす感づいていた。
「うーんとね……」
 彼女は頬をぴくりとひきつらせたきり、黙り込んでしまった。
 ――そこで言葉を濁すくらいなら、最初から言わなければいいのに。
 そう思ったが、口には出さずにいた。意見したところで彼女が耳を貸すとも思えない。何ヶ月か付き合ってきて、思ったことを腹に溜めることができないという彼女の性格はすでに承知していた。人の欠点を見つけるのが上手く、いつも弁舌さわやかに悪口を繰り出してくれる。本人を前にしてもなんら悪びれないのだからたいしたものだった。
 彼女の言葉をいちいち対応するときりがないので、いつものように聞き流すことにした。しかし、頭から取り払おうとすればするほど、その言葉は悪意をまとって美依を苛んだ。日ごろから気にしていたことが、事実を再認識させられたことで一気にふくれあがった。
 彼女の言いたかったことは、想像がつく。
 美依ちゃんって、ちょっと恐いよね。だって、ホラー映画見ても、平気な顔してたもん。いつもは笑わないのに、猫が死んでるのを見たとき、笑ってたもん。変だよ。なに考えてるかわかんない。ちっちゃい動物とか殺してそう。気持ち悪い――。
 まわりにいるクラスメイトが自分に注目している。白い目で見て、口々にある言葉を発している。何度も何度も頭を反響して、やがてその声しか聞こえなくなる。
 変人、変人、変人――。
 吐き気を催した美依は、すぐにトイレに駆け込んだ。
 当時の美依はごくおとなしい子供だった。とにかく目立たず、クラスメイトに名前を覚えてもらえないほど存在感に乏しかった。いじめっこにさえ見向きもされなかった。だが、美依はその事実に気付かず、“みんなから気味悪がられている”という被害妄想から脱却できずにいた。
 両親に転校を願い出たが、まったく取り合ってくれなかった。それでも美依が食い下がると、「逆境を乗り越えてこそ私たちの真の娘だ」とかなんとかわけのわからない主張を振りかざされた。
 今から思えば、切り返されるのも無理はない。犯罪マニアが高じて刑事になった父、ベビーシッターの名目で赤ん坊にいたずらするのが趣味の母――そんな自分の生き様に誇りをもっている、そういう両親だった。
 あの子は美依の悪口だけは決して言わなかった。彼女も性格が災いし、かまってくれる友達が美依以外いなかったからかもしれない。“恐い”ことに気付いてからも、彼女が美依から離れていくことはなかった。
 それからしばらく、美依はまわりの声から解放されなかった。意識して“普通の子”を装うようになったが、効果はなかった。全身に大量の冷や汗をかいて、たったひとりの友達に心配された。
 ――友達? いや、違う。
 仲良くしているつもりはなかった。向こうが勝手につきまとってきただけだ。そもそも、こうなったのはあいつのせいだ。あいつさえ余計なことを言わなければ――。
 そして、美依は彼女に仕返しをした。

 はっと我に返った。
 いやなことを思い出してしまった。もう4、5年も前のことなのに、あの頃の情景が脳裏にありありと映し出されていた。心の中で清算できたと思っていたので、またあのときの自分に苛まれるとは考えてもいなかった。
 左手がずきずきとうずき始める。調理実習のときに負った傷の存在を、今になって思い出した。
 美依は気を取り直すために深呼吸をした。誰にも気付かれないように、ゆっくりと。5秒をかけて息を吸う。2秒止める。5秒で吐く。
 吹坂遼子に笑顔を見られたことは軽率だった。だが、それがどうしたというのだろう。遼子には警戒されるかもしれないが、たったそれだけのことだ。遼子はあまり多くの人と関わるタイプではなく、言動が厳しいことから周りに苦手意識を持たれている。他人に真相を暴露されたとしても、遼子と行動を共にする可能性があるのは長谷ナツキと広瀬仁だけだろう。単細胞だが正義感が強いナツキと、筋金入りのいいひと、仁。人を苦しい立場に陥れるような言葉を、あのふたりがそのまま鵜呑みにするとも思えない。
 まぶたをゆっくりと閉じ、もう一度、深く深く息を吸った。それを吐くと、身体の中に渦巻くもやもやしたものが空気と一緒に出ていく気がした。汗が吹き出しそうになったが、すんでのところで引っ込んでくれた。
 ――大丈夫、大丈夫。何も心配はいらない。あの頃の自分はもういないのだ。
「男子9番、左右田篤彦くん」
 月家具が美依のすぐ前に出発する生徒の名を呼んだ。美依は目を開けた。
 ――次だ。
 あの子のことを考えた。小学4年生当時のたったひとりの友達のことを。たまらないほど憎かったのに、視界から消し去りたかったのに、今もなお近くにいる。妙な因果だ、と美依は思った。
 145cmというクラス一低い身長。つり上がった大きな目。誰かと会話しているところを通りかかると、いつも人の陰口を叩いており、あの頃から変わっていないことがわかる。
 美依は4年生の終わりに人知れず“仕返し”をして、クラス替えと同時に彼女と縁を切った。中学に入ってまで同じクラスになるとは思わなかったが、クラス発表のあとに軽く挨拶を交わしただけで、それ以上関わることはなかった。
 美依は彼女を見た。廊下側、前から2番目の席にちょこんと座っている根尾倫香(女子10番)を。
 女の子とそりが合わない倫香は、同じく小柄な男子2人――畠山智宏(男子12番)横田翼(男子19番)をいつも引き連れていた。高慢ちきなわがまま王女と、それをちやほや誉めそやす侍従たち。お姫様気質の彼女にはそんな構図がよく似合う。
「女子9番、西村美依さん」
 ついに自分の番がきた。
 美依はお気に入りのペンケースとエプロンをポケットに詰め込み、ゆっくりと立ち上がった。あまり堂々としていても不審がられそうなので、恐る恐る、伏し目がちに教壇の方へ向かう。
 美人兵士から受け取ったデイパックは思いのほか重く、果たしてこれを担いで動き回れるだろうかと心配になった。引き戸をゆっくり開けると、からからと乾いた音が教室に響いた。
 すぐそこにいる根尾倫香を見やる。倫香が出発するのは美依の4分後で、追いつかれないという保障はないのだ。もしかしたら、“仕返し”のことを根に持っているかもしれない。それを彼女の反応から判断しようと思った。
 倫香は口元で組んだ手をかすかに震わせ、どこか遠くを見つめていた。2、3秒の間その場にとどまってみたが、倫香が美依に視線を向ける気配はない。意識がどこかへいっているらしく、この様子だと、美依がそこにいることさえ気付いていないのだろう。つまり、美依のことには関心がないと、そういうことだった。
 最後に、教室の後方、現在の友人たちがいる方を見た。
 まず目に入ったのは無表情の遼子だ。普段どおり射るようにこちらを見つめている。そしてその後ろ、強張りながらもこちらに笑みを向けているナツキ。坊主頭の仁はごく心配そうな顔をしている。
 ――遼子ちゃん。ナツキ。ひーちゃん。
 目にたまった水のせいで視界がぼやける。震える唇の両端に力をこめ、やっとのことで持ち上げた。笑っているように見えただろうか。
 みんなを心配させないように。でも、不安は取り除けず、後から後から押し寄せる。
 これはもちろん演技だったが、向こうが、とりわけ遼子が、この表情を見て都合の良い方向に解釈してくれればありがたかった。
「さあ西村さん、早くしなさい」
 月家具が重低音で急かすので、美依は慌てて廊下へ出た。仮の涙を、怪我している方の手で拭う。×印の絆創膏にこすれてまぶたが少し痛かった。それがおかしくて笑いたくなった。
 過去に縛られていた自分と決別するように、美依は引き戸を閉めた。

【残り38人】