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 へっくしょーい。
 個性的なくしゃみの音が耳の入り口で渦を巻き、ゆっくり鼓膜へと伝わっていった。
 聞き覚えはあるが、誰のものかを判断するまでには至らなかった。とにかく眠く、頭が働かない。それでも美依はどうにかしてまぶたを持ち上げた。
 景色がぼやけている。焦点がまだ定まっていないらしい。ここが教室だということは直感でわかったが、目の前に見える黒いものが人間の髪の毛だと気付いたのは、もうしばらく経ってからのことだ。
 初めに視界に入ったそれは北須賀祐(男子5番)の寝顔だった。上半身を机に預け、静かな寝息を立てている。いつもは下卑に笑っている祐だが、こうして見れば結構綺麗な顔立ちだ。
 北須賀祐と同じように、美依も机に身をゆだねているらしかった。美依は真面目な方ではなかったが、学校で居眠りをするなんて生まれて初めての経験だ。かすかな罪悪感を覚えながら、鉛のように重い体を起こした。
 ふと見ると、窓が黒かった。日が暮れたのかと一瞬思ったが、窓の外が暗いのではなく、窓の全面に金属製の黒い板が打ち付けられているらしい。
 ゆっくりと教室全体を見渡した。クラスメイトは全員席についている。先ほどの美依と同じく、安らかに眠りながら。
 ぼそぼそと声が聞こえたので、そちらの方向に目を向ける。美依から右に2席先の吹坂遼子、その後ろの長谷ナツキ――美依の友人であるその2人が、なにやら話し込んでいた。こちらに気付く様子はない。両方とも顔を強張らせ、ひたすら言葉を連ねていた。
「ここどこよ」
「わからない」
「どうしてみんな寝てんのよ」
「わからない」
「うちら、どうなるのよ」
「わからない」
 美依にもわからなかった。
 ここは確かに教室なのだが、いつも通っている三津屋中学校でなかった。ホワイトボード、煉瓦の柱、板張りの床。辺りにある備品は、見覚えのないものばかりだ。
 その見慣れない掛け時計は8時10分を指し示している。朝なのか夜なのか、窓を覆い隠す板のせいでわからない。しかしどっちにしろ、美依は家でのんびりしているはずの時間だ。
 美依は次第に覚醒し始めた頭で、家庭科室にいたときのことを思い返した。
 自分たちは肉じゃがをつくり、それを食べ、そして眠りについた。どうやら誰かに眠らされたらしい。催眠ガス――いや、違う。窓が開いていたから。あるいは睡眠薬。これかもしれない。そういえば、ナツキが「肉じゃがが苦い」とぼやいていた。美依は気にならなかったが、もしかしたらそれは睡眠薬の味だったのかもしれない。
 そこまで考えたのはいいが、それより身だしなみを整えることの方が先決だと気づく。寝起きのままの乱れ髪を人目にさらすことなど、乙女心が許さないのだ。美依はポケットから折りたたみ式の鏡を取り出し、覗き込んだ。
 予想に反して自慢のロングヘアは乱れていなかったが、その代わり、首に見慣れないものがあった。
 金属の帯。それが美依の白い首にぴったりと巻きついている。もちろん美依はこんなアクセサリーを身につけた覚えはなかった。首輪――飼い主の所有物であることのあかし。拘束の手段。――マニアックな香りがするけど、ちょっとかわいいかも。
 もう一度教室を見回した。見る限り、クラスメイト全員の首を美依と同じものが飾っている。その事実を確認した途端、額から汗が噴き出してきた。噴き出すだけでは飽き足らず、頬を伝い、喉をも伝っていった。
 ――知ってる。あたし、知ってる。これとそっくりな状況。
 驚きのあまり呼吸ができなくなった。美依は表情を固めたまま、机の天板を見つめた。
 ねむらされる、と指で腿に文字を書いた。次に、しらないきょうしつでめざめる、と書き、くびわ、と書いた。本当にそっくりだった。これがもし、自分が知っているあの大イベントだとしたら、次に用意されているシナリオは、次に登場する人物は――
 ガラリと音がして、美依は素早く顔を上げた。見た頃には、前方の引き戸が全開していた。
 初老の婦人がひとり、続いて中年男性がひとり、静かに入ってくる。
 漆黒のマーメイドドレスを身に纏った婦人は、漆黒のふわふわした髪で顔の右半分を隠していた。全身黒尽くめ、とても不気味だ。ドレスの胸元では、大東亜共和国の政府関係者であることを示す桃色のバッジが光っている。
 中年男性の方は専守防衛軍の兵士らしく、迷彩柄の戦闘服を着込んでいた。立派な口ひげを蓄えてはいるが、気の優しそうなおじさんだ。自動小銃などの銃火器は所持していない。
「さあみなさん、起きてください」
 婦人は音も無く教壇に立った。張り上げているわけでもないのに、それはよく通る力強い声だった。
 眠っていた生徒がもぞもぞと動き始め、衣擦れが騒ぐ。しかし当の本人たちはぼんやりとしたまま、一言も言葉を発しなかった。美依もまた黙っていた。話せる状態になかった、という方が適切かもしれない。
 ――まさか。まさか、本当に選ばれるなんて。信じられない。
 自分の手が震えているのに気付き、それを確かめるためにうつむくと、震えは全身に広がった。夢なのではないかと思ったが、紛れも無い事実だった。今のこの状況が、胸ポケットに収まっているMDの内容と酷似しているということは。
「眠っている人があれば起こしてあげてください」
 婦人の言葉を聞いているのかいないのか、生徒たちはただぼんやりとしていた。どうやら状況をよく把握できていないらしい。まあ、当然といえば当然だ。なぜならこれは秘密の実験なのだから。それを知っているのはクラスでただひとり、西村美依だけなのだから。
 美依はささやかな優越感に浸っていた。しかし次の瞬間、高くなり始めた鼻は無残にへし折られることになる。
「プログラム……」
 どこからともなく、消え入るような声が聞こえ、響いた。教室の空気が一瞬にして凍りついた。

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