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「美依、すごいもの手に入れちゃったよ」
 今から1ヶ月前の春休み最中のこと。父が家に持ち帰ったそれは、平穏な生活を崩壊させうる、危うくも魅力的な物だった。
 西村美依(広島県広島市立三津屋中学校3年3組女子9番)は、その何枚かある“すごいもの”のうち1枚を、ブレザーの胸ポケットに入れて持ち歩いていた。あらゆるどんな御守りよりも、美依にとってはそれの方がよっぽど有り難かった。時々手にとって眺める。プリズムに反射させた光を目に当てるのが、今ではもう癖になっていた。ちかちかして面白いのだ。
 それはMDだった。計10枚、父からのプレゼントだ。
「詳しく知りたいって言ってただろ。あれだよ」
 父はもったいぶって最後まで話してくれなかった。ラベルにはそれぞれ“No.1”から“No.10”までの通し番号だけしか記入されておらず、どのような内容なのかは計り知れない。父は言った、聴くまでのお・た・の・し・み――そしてウインク。
 それより驚いたことに、全てのMDを飾るラベルには星条旗のプリントが施されていた。それを貼ったのは父らしいが、こんなものを一体どこで手に入れたのだろう。この国、大東亜共和国では政府に絶対的な権限があり、その政府様はアメリカ合衆国がどうしようもなくお嫌いなのだ。こんな柄のラベルを一般企業が販売しているとは考えにくい。となると父が自ら作った可能性が高くなるが――彼はそんなに暇人なのだろうか? こんなことばかりに精力を注ぎ、仕事の方がおろそかになっていないといいのだが。
 いろんな意味で訝りながら、日課である深夜のテレビ番組鑑賞を終えた後、まず“No.1”のMDから順に聴いてみることにした。
「あ」
 鮮やかな赤が視覚を刺激した。意識が急に現実へと引き戻され、左親指の付け根に切れ込みが入っていることに気付く。ぼんやりと考え事をしていたせいで、握っていた包丁が暴走してしまったらしい。傷は深い。木製のまな板は美依の血に染まった。
 楽しい調理実習の時間、家庭科室は更に色めき立った。
「痛そ、大丈夫?」
 隣で豚肉をざくざく叩き切っていた長谷ナツキ(女子11番)も、さすがにその手を止め、友人の哀れな左手を見つめた。出血の量に驚いたのか、口が半分開いている。
 まず、周りにいた女の子たちが心配そうに、大丈夫? と尋ねてきて、それを聞きつけた男子たちが血を見るなり大袈裟に騒ぎ立て、果てにクラスメイトのほとんどが押し合いへし合い美依を取り囲み、大丈夫? を合唱した。美依は、だいじょーぶだいじょーぶ、ととてもにこやかに答え、群集をなだめた。
「あーあー、何やってんだ西村」
 ある程度野次馬が引いたあと、家庭科担当、そして3年3組の担任である秋原義昌教諭が重い腰を上げ、美依の様子を確かめに来た。
「器用だな、どうやったらそんなとこ切れるんだ?」
「ムカつくー」傷を口に含みながら喋ったので、美依の鈴のように可愛らしい声がこもった。「絆創膏出してよー、早くー」
「へーへー、わかりましたよ」
 秋原は至極めんどくさそうに、白衣のポケットから絆創膏の箱を取り出した。箱ごと調理台に放り投げ、「好きなだけ貼って、余ったら返せ」などと吐き捨てたかと思うと、さっさと教卓の方へ戻っていってしまう。弱者に対する気遣いというものがまるで感じられない。――まあ、たいして痛くないけど。
「なめちゃ駄目だって」
 流しにいた吹坂遼子(女子13番)が、じゃがいもの皮をさらさらと剥きながら言った。「手ぇ洗って。それ貼ってあげるから」
 言われたとおり流水に手を通すと、血液の溶け込んだ水が排水溝に飲み込まれていった。それでも血は後から後から湧き、止まることなく溢れ続けた。
 遼子が美依の手を取り、使ってないから清潔だよ、と主張した上で自身のハンカチに水分を吸わせた。血が溢れ出さないうちに素早く絆創膏を覆い被せる。最後に綺麗に密着させればできあがり。美依にはごく普通の動作に見えたが、看護婦みたい、とナツキが感心していた。
「ありがとー、遼子ちゃん」
「はいはい、これからは気をつけなさいよ」
 遼子は眼鏡の向こうにある目を軽く細めると、すぐにまた普段どおりの無表情に戻り、作業を再開した。
「あ、いいこと考えた!」
 そう言ってぱちんと指を鳴らしたのは長谷ナツキだ。なにがはじまるのかと思っていると、ナツキは先ほど遼子が貼ってくれたその上に新しい絆創膏を重ねた。“×”の形になった。
「かわいい、漫画みたい」
 遼子が「はあ?」と眉根を寄せる。「バスケのやりすぎで脳味噌まで筋肉になったんじゃない?」
 ナツキは締りの悪い口を更に広げた。「うわ、ひでえ」
 こうして口喧嘩の火蓋が切って落とされた。事情をよく知らない人間が見ればおろおろしそうな場面だが、美依は目も当てられない状態にならない限り止めに入らない。本人たちがそのやりとりを楽しんでいると知っているからだ。頭脳明晰の遼子が折に触れて毒を吐き、血の気の多いナツキがむきになって突っかかる。それは彼女たちなりのコミュニケーション方法だった。そんなナツキと遼子の間で仲介役を担っているのが美依だ。
 そこで美依はふと、まな板を汚していたことを思い出した。調理台に目を落としてみたが、非情なことに誰も片付けてくれてはいない。――みんな、怪我人にもう少し優しくしてもいいのに。
 美依はまな板を洗いながら、何気なく家庭科室全体を見渡した。
 4月の28日。2年生から持ち上がった馴染み深いクラスメイトたちは、お祭り騒ぎのなかで調理実習に挑んでいた。サボっている生徒も、まあ少々。
 授業中にこれだけ騒がしいと、普段なら学級委員の竹岡鳴(男子10番)が注意という名の説教を始めるはずなのだが、今日はその声がいつまでたっても上がらなかった。見れば入口から入ってすぐの調理台付近で柔道部副主将の平野要(男子13番)と喋っている。肝心の手の方はぴったりと止まっていた。
 男子学級委員のすぐ近く、輪になってなにやら話し込んでいるのは、財官正(男子8番)左右田篤彦(男子9番)藤井雪路(男子15番)といった動物愛好家たちだ。騒音の隙間から届いてくる会話を総合すると、どうも彼らは“豚肉を誰が切るか”という深刻な問題に直面しているらしい。左右田篤彦のペットは豚である。正や雪路は元々動物好きな上、友人の愛豚自慢を情が移るほど聞かされている。そんな彼らに豚肉を食べろというのは酷な話だった。
 そうやってぐずぐず話し合っている動物愛護団体を見るに見かね、同じ班員である坊主頭の男の子が彼らに声を掛けた。――肉抜きのを別に作ろう。3人はそれを食べたらいいよ。ちょっと待ってて、もうひとつ鍋もってくるね――。
 その後ろ、そして美依たちの前にある調理台では、横田翼(男子19番)の華麗な包丁さばき(二刀流)によって材料が刻まれていた。その横にいる畠山智宏(男子12番)根尾倫香(女子10番)が、翼の妙ちきりんな動きにけらけら笑っている。このおもちゃのように小柄な3人が揃って遊んでいる光景は実に微笑ましい。しかし仲良く見える一方で、男2人が倫香争奪の火花を散らしているという噂も囁かれている。
 その右隣は男子7人で構成される班だ。その中で一際目立っているのが小田春生(男子3番)だった。眩いほどの金髪、180cm余りというクラスで一番の身長、ピアスで物々しく飾り立てられた顔。ただそこにいるだけで目立つのだが、身なりの他に問題を起こしているかというと、どうやらそうでもないらしい。少なくとも教室での彼は、誰かとほんの小さないさかいも起こすことなく、ほとんどの時を窓際の席で外を眺めて過ごしていた。つまり、小田春生とはごく大人しい人物なのだ。しかしクラスメイトたちは風貌から人となりを判断し、春生に話を聞くことはおろか近付くことすら怖れているため、その事実に気付く人間は少ない。
 ただひとり、春生のことを気に入っているのが長谷ナツキで(身長に不釣合いなそのかわいい顔が乙女心を刺激する、とのこと)、時々話し掛けては「喋らないところがまたかっこいいよね」と周囲に同意を求めていた。
 賛同する女の子は皆無、逆にナツキへ批判・罵声などを浴びせ、決まってある疑問への返答を迫る。
「馬渕くんを差し置いて、何故?」
 馬渕謙次(男子17番)は誰もが認める完璧人間だ。まず顔が良い。すっきり整った目鼻立ちは好き嫌いを選ばない。それに加えて、成績優秀、スポーツ万能、とにかく何をやらせてもそつなくこなすものだから、生徒内に止まらず、教師、近所の主婦をも巻き込み、馬渕謙次信者は日々増える一方だ。行く先々で黄色い声の嵐に打たれながら、それでもおごることもへこたれることもなく、誰に対しても丁寧に接する気遣いこそが、その人気に拍車をかけている大きな要因だろう。
 小田春生と馬渕謙次は同じ班らしい。他のメンバーたちがふざけて遊んでいる中、その2人、加えて謙次と仲のいい別所亮(男子16番)だけが真面目に調理していた。
 黒板の方へ視線を移すと、教卓を前に立ち尽くしている桂城友衛(男子4番)が見えた。どうやらそこにある布巾を取りたいが、どうしてもあと一歩が踏み出せないらしい。さっさとすればいいのにと美依は思うが、友衛の性格を考えるとそれは仕方のない話だった。北須賀祐(男子5番)から使い走り同然の扱いを受けても、不平のひとつも言えない。そんな気弱でひ弱な彼の眼前にいま立ちふさがる壁は、とてつもなく高く強固だ。お目当ての布巾が置かれているのは、教卓で堂々と居眠りをしている“不良”の鼻先だった。
 伏しているせいで顔は確認できないが、風になびくその硬そうな髪は空本比菜子(女子4番)のものだろう。彼女の姿を見たのはずいぶん久しぶりだ。それもそのはず、3年生に進級してからこれまで、比菜子の出席日数は“0”を保持していた。2年生の頃も休みがちで、夏休みが明けた頃などは連続欠席日数がまるまる1学期分を記録している。その際、もしかして少年院入りしたのではないか、という噂がまことしやかに囁かれ、いつしか比菜子は学校中から恐れられる存在となっていた。
 桂城友衛はようやく決心し、教卓の上に乗っていた布巾を掴んだ。あとは疾風のごとくその場を去るのみだ。――ナイスガッツ、友ちゃん。美依は心の中で彼の勇気を称えた。
「星条旗?」
 その単語が思いがけなく耳へと飛び込んできたので、危うく心臓が止まるところだった。振り向くとそこには、美依の胸ポケットを何食わぬ顔で覗いている広瀬仁(男子14番)の坊主頭があった。
 美依はとっさにポケットの口を押さえた。
「ひーちゃんのエロガッパ」
「え、えろがっぱ?」仁はしどろもどろになった。「えー、あー、ご、ごめん、そんなつもりは……」
「みなさーん。広瀬くんがいやらしい目で舐めまわすようにあたしを見るんですー」
「違う違う!」
 周囲に注目された仁は、真っ赤になりながら弁解した。
 仁は吹坂遼子の幼なじみだ。家がお隣同士だということもあり、毎日一緒に登下校している。2年生になってすぐの頃、遼子と親しくなった美依はふたりの仲をからかったが、照れる、否定する、あからさまに嫌がる等の面白い反応が返ってこなかったので、すぐやめた。十数年もの間つちかってきた信頼関係はよほど固いものらしい。
「ふう、参ったな……。ときに西村さん、それはMD?」
 自身の坊主頭を撫で付けながら、仁は“それ”の入っているポケットを指差した。見るとなるほど、星条旗のラベルがほんのちょっぴり頭を覗かせている。どさくさに紛れればと期待していたのだが、どうやら仁を甘く見すぎていたらしい。
 美依はMDを押し込み、そして嘘をついた。
「そうだよー、西村美依的ベストヒット歌謡15」
「へえ」仁は笑顔を見せたあと、ふと首をかしげた。「でも、プレーヤーも持ってないのに?」
 相手はなおも食いついてくる。考えてみれば、ただの音楽データだけを持ち歩くというのも不自然だ。人の良さそうな顔をして結構鋭い。
「聴きたいときは茉莉ちゃんに借りればいいと思ってー」
 美依は間髪をいれずに答えた。我ながらよくもこう次から次に出任せを言えるものだ、と思った。
 確かに話題にあげた森上茉莉(女子17番)は、ポータブルMDをはじめ、多数の携帯電気機器を学校に持参している。しかし彼女とは、ただクラスが同じというだけでほとんど関わり合いがない。相手の潔癖症もあいまって、貸してくださいと頼んでも自分で買いなさいとあしらわれるのが落ちだ。
 ならば何故こんな嘘をつくのかというと、このMDがやばい代物だから、の一言に尽きる。
 女の子の対人関係を把握しきれていない仁は、ようやく納得したふうに何度か頷いたあと、「あ、やばい、食器取りにきたんだった」と小さく叫び、慌てて食器棚へと走っていった。おそらく雑用をすべて引き受けているのだろう。動物愛好家たちと同じ班というだけでも大変なのに、その上自ら苦労を呼び込むとは。面倒な性格だ。
 仁の受難について哀れみながら、美依は深く溜め息をついた。
 ――御守りにすがるのは受験のときだけで充分なのかもしれないな。
 MDの中身が知れれば、自分の本性をさらけ出すも同然だ。そうなると、ひたすら“普通の子”を装ってきた苦労が台無しになってしまう。そもそも、不特定多数の人間が往来する場所で物を隠し通そうというのが間違いなのかもしれない。
 物思いに時間を費やしているうちに、手際の良い班員たちは肉じゃがを煮込み始めていた。美依もまな板の洗浄をさっさと済ませ、彼女たちを手伝った。

 野菜がちょっと硬いな、とぼんやり考えて、その“ぼんやり”が考え事の生み出すそれとは異質なものだと気付いたときには、美依はもう調理台に突っ伏していた。食事中であるにも関わらず、どういうわけか睡魔に襲われている。
 一足早く食べ終えたナツキと遼子は一緒に食器を洗っていたはずだが、その2人とおぼしき足が地面に横たわっていた。ついに取っ組み合いのけんかになったか、とも思ったが、それにしては静かだった。ナツキや遼子だけではない、先ほどまで騒がしかった教室全体が、今や静寂に包まれている。
 重い身体に鞭打って、どうにか頭を動かし、見た――同じ班の女の子たちや、他人の肉じゃがを味見し回っていた男子たち、それに秋原先生、とにかくみんながみんな、調理台や床にその身を預けているのを。美依は安心した。眠いのは自分だけではなかったのだ。
「なあ、みんな、なに寝とん……起きようや、なあ……」
 誰かのつぶやき声が聞こえたので、その主を思い巡らせた。関西なまり、蚊の鳴くような声、古屋祥子(女子15番)。――そうだ、あの子、奈良出身の大人しい祥子ちゃんだ。でもなんで、あの子だけ起きてるの――?
 思考はそこで途切れた。

 それから約3時間後のこと。本来ならおやつを楽しむ時間帯だが、西村美依の母は玄関先で黒塗りのセダンを見送っていた。
 おやつをいただくことよりも、もっと重大なことが起きてしまった。こうなればこの時までとっておいたバニラアイスはいったん忘れ、夫の携帯電話に連絡を入れるしかない。
「あ、パパ? 今ね、政府の人が家に来てね、なんと美依がね……あっ、そうそう、鋭いな」
 用件が無事伝わったので、例の物に手をつけることにした。3軒先に住む山本さんお手製のバニラアイス、近所の奥様方に大評判。予約をして10日、この時をどんなに待ちわびたことか。
「負ける気しないな。あなたもそうでしょ? あの子、有利だもんね、他の子より。……うん、早く感想聞きたいね」
 それからたわいもない世間話を5分ほど続けた後、夫の上司がわざとらしい咳払いを響かせたため、そこで電話を切った。ソファに腰掛け、大きく伸びをする。
 本当のところ、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。少し、ほんの少しだけ嫉妬しているのかもしれない。肌は白く髪は茶色、まるで異国のお人形さんのような美依に。それに、強運の持ち主らしいことも引っ掛かる。この前も福引の2等賞を当て、その賞品である電動自転車を惜しげもなく自分に譲ってくれた。それよりなにより――
 自分も参加したくてしょうがなかったのだ、あの“ゲーム”に。
 しかしここは親として、素直に娘を応援してあげよう。美依が思う存分楽しんでくれば、それで自分の無念は晴れる。――悔しいけど。いやいや、それはもう言わないお約束。
 溶け始めていたバニラアイスをほおばると、濃厚なミルクの味が口の中を支配した。少し気分が悪くなった。この気持ちの悪さが心地よかった。
 美依、お母さん、お土産話を楽しみにしてるからね。
 いっぱい、殺してきてね。

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