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レシート


 彼女のビンタが頬に当たると鈍い肉の接触音が狭い室内に弱弱しく響き渡った。痛みは少しもなかったが、身体に直接痛みが染み込んでくるようで憂鬱な気分になった。眼光にいつもの冷たさがない彼女は何処か呆れていて、哀れみに近い感覚の穏和な眼差しで僕を凝視している。沈黙を守ったその表情は硬直したままいっこうに変化することはなく、頬を打つ彼女の掌がほんのり赤く染まっていくのを他人事のように見つめた。余裕のある自分がいることに驚きもしたが、そのすぐ後に失望の波が僕を飲み込んだ。僕はもう彼女を必要としていない。そのフレーズだけが彼女の頬を打つ音と呼応して、何度も何度も頭の中で回っていた。

「しあわせ・・・」
 ただの独白なのか疑問を投げかけているのか分からなかったが、彼女は確かにそう呟いたのを今でも覚えている。口数の少ない彼女が洩らした一言を今でも覚えているのは未練があるからなのか。ちょうど今のようになる半年前の丑三つ時に、空の低い夜の闇夜の中で彼女は確かにそう呟いた。
 僕が、「何か言った?」と聴くと、彼女は黙ったまま意味深に笑みを浮かべた。それ以上の詮索は無用だと思い、ただその綻んだ彼女の顔に手を当てた。すこし熱い彼女の頬は、先ほどのまでの熱い触れ合いの記憶を一気に呼び起こしてくれた。セックスという幻が生の現実になった記念すべき日だった。自分が何処か昨日までとは違う存在になったようで、身体が不思議と軽かった。そんな浮かれた心情を見透かしたのか彼女は顔に触れられていた手を、そっと自分から離した。そんな稚拙な思いを察知されたことに羞恥心を刺激された僕は曖昧に笑って見せたが、彼女の顔が急に迫り今日いく度目かの口付けを交わすとそれは赤面へと変わった。コンビニ袋を握る手に汗が滲んだ。もう冬だというのに身体の方は火照りを忘れようとはしなかった。ふたりの吐く白い息が表れては闇夜の中に吸い込まれていった。
「さっきのなんぼ?」
 そういって彼女は、コートの中から財布を取り出した。
「さっきって?」
「ほら、コンビニで立て替えてくれた分の」
「ええよ、そんなの」
「でも・・・」
 男が女におごるというのが僕の中の恋愛の常識だった。そのころの僕は彼女との付き合いに没頭するばかり、「恋愛」と名の付く様々な書籍類を買い漁ったり、テレビの特集番組を録画して何度も見たりすることで自分の中の恋愛イロハを構築していっていた。その中でも金銭的なことに関しては極めて重要な要素であることを学んでいた。縁の切れ目は金の切れ目。僕は大学受験を控えた大切なこの時期に生まれて初めての体験である、バイトを始めていた。中の上ぐらいの飲食店のウエイターで人付き合いの悪い僕には拷問のような日々に思えたが、それでも彼女に対して自分ができることと言えばこれぐらいだと思い込むことができたので、それほど苦痛は感じられなかった。今思えば、自分の中の恋愛論に陶酔するばかり、何もかもの神経が麻痺していただけだった。
「やっぱり払うわ」
「ええって・・・」
「払うの!」
 急に怒鳴るように彼女が叫んだので、僕は言葉を失ったまま狼狽した。すると、自分の声に驚いたのか、彼女は俯いて恥ずかしそうに呟いた。
「同じじゃないと・・・」
「同じ?」
「同じじゃないと、私、困る」
「なんで? どうして?」
 僕は困惑を隠し通すことはできなかった。自分の中の当然の行為が彼女を怒らせているのだ。何かとんでもないことを自分はやってしまったのだとすぐさま自分を責めたが、何をどう攻めて良いのかさえ分からなかった。あっさりと僕の恋愛イロハは否定されてしまったのだ。これ以上に僕の平常心を崩壊させる格好の出来事は他になかった。
「同じで・・・、平等じゃないとアカンの」
「な、なんで?」
「楽しくできないやん・・・」
彼女がそう呟き、それ以上僕らは言葉を交わすことなく家に戻った。その帰路での長い長い沈黙の中で僕は、ふとこれと似たようなことが前にもあったことを思い出した。
 まだ暑かった夏の日。
 大学受験者を対象とした補講授業があるため、僕は眠気眼のまま学校に向かって自転車を漕いでいた。信号の表示が変わるのをぼんやりと眺めていたら、背後の方で自転車のブレーキ音がしたのでゆっくり振り返ってみると彼女の姿があった。そのころの僕らは特に取り留めて仲がいい訳でもなく、ただクラスが同じだと言う意外に繋ぎとめる物もない至って「普通のクラスメイト」の関係でしかなかった。
「おはよ」
 気のない挨拶を彼女が投げ掛けてくれた。何か話さないと気まずそうだなと思った僕は、彼女に取り留めのない話題を提供した。時事的にも問題ない普通で妥当な話題のはずだった。
「あ、山河さんは大学どこ受けんの?」
 もちろん彼女が何処を受けようが僕には関係なかったし興味もなかった。ただ時間を潰すのにはちょうどいい話題提供だとは思った。しかし、彼女の方から返ってきた答えは聊か検討外れで、僕を驚かせてくれた。
「大学、行かないの」
「へっ?」
 信号が黄色に変わり、彼女が少し前に出た。
「え、じゃあ、補講出なくてええやないの?」
 信号が青になり、彼女がペダルを強く踏み前に進み出した。促されたように僕も彼女の横に付いて進み出す。
「うん、出なくてええの」
「じゃあ、何で学校行くの? 部活やってたっけ?」
「もう引退したよ、夏休み前に。私、みんなと一緒に補講受けたいんや」
「関係ないのに?」
「関係はないけど、同じことしないと、なんだか楽しくないやん・・・」
 何処となく弱々しい声でそう言ったのを今でも覚えている。彼女はこのとき既に親の勤めるス−パーへの就職が決まっていた。でも、無断欠席の目立つ補講授業の教室には彼女の姿がいつも当然のようにあった。他の受講者や教師でさえも不可思議な彼女の行動に首を傾げたが、僕はその風変わりなところに徐々に惹かれていっていた。
 部屋に戻ると、彼女は小さく「ごめんね」と言った。僕は黙って首を横に振り、ついさっき思い出した夏の日の思い出について彼女に話した。
「同じだと、落ち着くんやね」
 コンビニ袋からペッドボトルの紅茶を取り出しながら彼女は呟いた。急に温度差が段ちになったせいか、ふたりとも顔が赤らんでいておかしい。僕は羽織っていたジャンパーをベッドの上に投げ捨て、彼女にもコートを脱ぐことを促した。
「拘りがあるんだ」
「拘りってほどじゃないけど、みんなと同じことをしていたら淋しくはないし・・・、それに、みんなと同じ思い出があるほうが、楽しいと思うから」
 彼女の財布がパンパンに膨れ上がって不細工な様相を呈している。細かい気配りでいつも僕を感嘆させてしまう彼女の私物にしては不釣合いだ。そういえば、さっきの帰り道でも使いにくそうに財布を取り出していたことを思い出した。不細工な財布と「同じ」ことに拘る彼女。僕はどうしてもこの不細工な財布が気になって、中身が何なのかを聞いてみた。
「何入ってるの?」
 異質なほど膨れ上がっている自分の財布に気付いた彼女は、慌ててそれをコートの中にしまおうとした。
「まさか、お札?」
「そんなわけないでしょ、レシートよ、レシート」
「レシート? それにしても多すぎない?」
 彼女は一度コートの中に入れた財布を再び取り出し僕の方に見せてくれた。そして、その中から数枚のレシートを取り出して、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに話してくれた。
「レシートって、買った日の日にちや時間、それにもちろん品物の名前とかも書いてるでしょ、だから、時々昔のレシートなんか見てたりすると、その買った時のことを思い出しちゃって、なんか楽しくってなったり嬉しくなったりして、すごく変な話なんだけど、そういうこと思ってたら、知らないうちにもうレシートを集めてたの」
 話しながら彼女は何やら膨れ上がった財布の中から一枚のレシートを見せてくれた。
「何のレシートだか、分かる?」
 レシートには1998年10月23日の日にちの他に、今も彼女飲んでいるペッドボトルの紅茶の名称が書かれていた。10月23日。忘れもしないその日は、学校帰りの彼女を待ち伏せして、生まれて初めての告白を試みた日のことだ。そして、生まれて初めて自分に彼女とい素晴らしい存在ができた日でもあった。忘れるはずないじゃないか。自分のまだ僅かな生涯で最高の日だったのだから。
「記念日やね」
 そう言って僕は、笑った。それにつられて彼女も、顔を皺くちゃにして笑った。

  それから高校卒業までの数ヶ月間は本当に幸せな時間だった。僕は生まれて初めて心の底から熱中できるものを手に入れた喜びから、全く他のものには手の付かない日々を送った。時には学校よりもバイトのほうを優先させ、両親にこっ酷く説教を受けたりもしたが、苦にはならなかった。自分には大切な人がいる。自分が愛すように自分を愛してくれる人がいる。その生の現実こそが今の自分の全てを形成してくれてるようだった。しかし、至福の時もそう長くは続かず、次第に僕は苛立ちを覚えるようになった。既に進路が決まっている彼女とは違って、自分には大学受験という大きな通過儀礼が待っている。大学生になること、それ以外の道は考えられなかった。僕は本当に物事を一辺倒にしか考えられない男だった。しかし、現実問題として卒業までの数ヶ月をバイトと彼女との時間に割いた僕が入れる学校など何処にもなく、自分の自尊心に背き当初よりも段ちにレベルが低い学校を受けたのにも関わらず僕は、浪人生という未知の道を歩くことを余儀なくされてしまった。全ては自分の責任でああて、他の誰かが悪いわけじゃない。そう思い込もうとするたびに彼女の顔が脳裏に過ぎった。僕の中で何かが壊れ始めようとしていた。両親からの冷たい対応にも押され、憂鬱な思いは肥大するばかりで碌に勉強にも手を付けることができないままボーっと一日を終えることも多くなっていった。毎日のようにしていた彼女への電話も日に日に少なくなり、二週間声を聴いていないということも稀ではなかった。あんなに没頭していた恋愛がいつの間にやら自分を縛っている枷にさえ思わせた。既に彼女に対する愛情はなく、白々しい関係をこれ以上続けまいとする聊か乱暴な思い込みが僕の中を満たしていった。
 それでも彼女が仕事の合間に気になって顔を見せてくれたときは、さすがに嬉しかった。顔を合わすたびに卑下したような表情で僕を睨む親とは違って、彼女の視線は本当に優しかった。でも、それが逆に僕の自尊心を大きく傷つけた。彼女は既に自分の手で賃金を稼ぎ、成人への道のりを順調に進んでいるというのに、僕は自分に酔った挙句に大切な人生のレールを踏み外してしまったのだ。幻でしかなかった彼女への愛情は、妬みと憎悪へと変わっていた。
「別れよか」
 ほんの短い一言を僕は彼女に投げ掛け、沈黙を守った。もう話すことすら憂鬱に思えたからだ。暫くふたりとも立ったままの状態で時の緩やかな流れの中に身を任した。
 パンっ
 彼女の平手が自分の頬を唐突に襲ったが、それほど驚きはなかった。どうせなら殺してくれても構わない、そんな自暴自棄の念が感情も神経も麻痺させてしまっていた。無表情のまま彼女の連打が僕を襲ったが、次第に自分が脳が考えるのを拒絶したかのように思考が真っ白になっていった。彼女の掌が赤く染まり、息は荒々しくなっても彼女は打つのを止めなかった。昔、二人で見た映画の中にこんなシーンがなかったっけ。傍観しているような他人事みたいな思いが頭に過ぎり、また自分に失望した。
「やめとき、手、真っ赤やで」
 僕が抑揚のない声でそう言うと、急に彼女の顔つきが変わり一気に怒りの形相へと変貌した。そしてグーで力いっぱいに殴られた。さすがに婦女子の力とは言え、未だかつて誰にも拳で殴られたことのない僕は一気に怯んだ。そして、身体の中の血が一斉に逆流したのではないかと思えるぐらい、身体が熱くなった。間髪入れずに二発目が僕を襲った。避けようようとした僕のつま先がまだ放置されっぱなしの炬燵に当たり、半回転しながら背中から無様に転んだ。その上に彼女が馬乗りする形で被さってきた。そして更に彼女僕を殴り続けた。荒い呼吸をしながら、何度も何度も僕の顔を拳で打った。  殴られた部分が熱を持って、次第に痛みが全身に回った。殴られるたびに彼女の熱が自分に伝わってきた。本当に痛かった。肉が骨が心が軋んで、僕は声を殺して泣いた。
「何、泣いてるのよ」
 息を切らし見下しながら彼女はそう言った。そして、僕の上から降りて鞄の中から財布を取り出し中身を僕にぶちまけた。僕は上半身を起こし、彼女の方を見た。空になった財布をぶっきらぼうに握り、彼女は泣いていた。
「私は! 私は、楽しかったの。もうレシートなんてものに頼らなくても十分に楽しかったの」
 散乱する紙幣と硬貨、それに色様々なカードが幻想的なオブジェに思えた。レシートらしい紙切れは一枚も見当たらなかった。そう言えば、もうずいぶんも前から彼女の財布は不細工な様相を呈していなかった様な気がする。彼女に殴られた顔が熱を持って、熱かった。幻だと蔑んだ愛情が熱を伴って身体に染み込んできたみたいで、確かにそれは痛かった。
 僕はなんて愚かだ。愚か過ぎる。情けなくて、涙が止まらなかった。
「お前、強いな」
「アホ」
 初恋は、飯事は漸く終わってくれた。火照った顔に彼女が優しく触れた。
DERMANさんからいただきました。
高校生くらいの男女が出てきて、暗いけど綺麗な感じの小説書いてください。って無理なお願いをしたらば。
というか勿体なすぎです。素晴らしすぎます。
大阪弁ってなんか優しい感じでいいですな。と思った。
泣いた。うふふふ泣きましたよ。話読んで。
普段はあまり重要視されない(主婦には重要だけど)レシートがこうやって話に絡んでくるとは・・・上手すぎ。